PAGE TOP ↑
eJudo

【eJudo’s EYE】準備不足の残念な試合、「勇気のなさ」を受け入れる勇気はあったのか/東京オリンピック柔道競技100kg超級早出し評

(2021年7月31日)

※ eJudoメルマガ版7月30日掲載記事より転載・編集しています。
【eJudo’s EYE】準備不足の残念な試合、「勇気のなさ」を受け入れる勇気はあったのか
東京オリンピック柔道競技100kg超級早出し評
eJudo Photo
ルカシュ・クルパレクとの準決勝を戦う原沢久喜

文責:古田英毅
Text by Hideki Furuta

ひたすら悲しい。残念だった。テディ・リネール(フランス)の準々決勝敗退で、聖地・日本武道館における東京オリンピック最重量級日本人金メダルの可能性が大きく高まった準決勝、しかし日本代表の原沢久喜もルカシュ・クルパレク(チェコ)に敗退。それも全力を出し切り、全ての力を吐き出し、刀折れ矢尽きるというような美しい「討ち死に」ではなく、数時間後の現在ネットに溢れ返る言葉を借りれば「技を掛けない」「仕掛けない」まま時間を過ごし、逆に勇を振り絞った相手の思い切った技に転がって終戦という不完全燃焼。ここまで5階級を制覇して迎える実質上の大会最終日、井上ジャパンの9年に亘る旅の大団円にふさわしいストーリーを期待していたファンには受け入れがたい内容だった。

原沢の5年に亘る苦闘、努力にまず敬意を表した上で、なるべく乾いた視線で、自分なりにこの試合を切ってみたい。

まず無策、そして仕掛ける勇気がなかった試合であることは間違いない。事の良し悪しを超えて、これはドライな大前提である。

無策。原沢はクルパレクと2019年東京世界選手権決勝で対戦、GS延長戦3分50秒「指導2」対「指導3」で敗れている。あと一歩で勝利に手が届く接戦であった一方、無形の組み手と長い体を利した柔らかい受けを誇るクルパレクを次回どう仕留めればいいのかが見えない試合、なまなかなことでは次回の勝利が想像しにくい一番であった。この際もっとも苦労したのが、腋を突いてくる釣り手の処理。原沢が二本持ってもこれで間合いを詰めさせず、ここから自分のやりたいタイミングだけ背を抱き、一気に距離を詰めて掛ける。今回はこの組み手に対してどんな対抗手段を持ち込むかがみどころだった。が、これに関しては具体的な策を見せることはなかった。

また、原沢はまったく組めないわけではなく、確かに手を突かれたり、差されたり、肘を入れられたり「ここさえ1つ外せば」という条件付きではあるが、大枠良い形で組めている時間があり、それは決して短くなかった。むしろ苦しい場面はクルパレクの方に多かったのではないと思う。ただ、そこで原沢は掛けなかった。攻めなかった。組み手の状況からも時間帯からも、行かないことはむしろ不可解。そこでほぼまったく、技を掛けなかった。この点、たとえ苦しくても組み勝つなり思い切って技を掛け続けたクルパレクとは好対照だった。具体的に投げるために掛けた技はほとんどゼロに近いのではないか。オーバートレーニング症候群に蝕まれていたあの時期、2017年世界選手権の「イップス」症状を思い起こしたのは筆者だけではなかったはず。体が固まってしまった。この日の男女2階級ほぼ全試合を見させて頂いたが、勇気を出せず、気後れして技を出せず、これがために敗れたものは大げさでなく原沢ひとりだけと言ってよいと思う。あの(慎重居士の代名詞だった)リネールの敗戦だって、圧殺「指導」勝ちで十分なところを投げに出て、ためにアクシデントに遭ったものだ。このあと行われた準決勝第2試合、タメルラン・バシャエフ(ロシア)とグラム・ツシシヴィリ(ジョージア)の凄まじい投げ合いが眩しく見えた。われらが代表選手・原沢は、なぜこれが出来なかったのだろうと。

「勇気」の有無はともかく、対策がないのであればスタッフもその責を問われるべきではという考え方もある。ここを起点に少し語っていきたい。井上康生監督は戦後の囲み取材で対クルパレク戦の対策について問われ、「2019年の戦いを分析して、投げも色々なバリエーションを考えていた。勝負させられると思っていた。組み手もある程度出来ていたが、入っていけなかった。投げに行く準備はしていたのだが、それを出させてあげられなかった」と答えた。ここまでのエリアを監督の責任として語るのはちょっと無理があるとは思うのだが、ここで大事なのは、具体的な技をはじめとした「策」は準備していたということ、そして、それが発動する条件が整っていたということ。しかしそれでも作戦は実行されなかったわけである。出来なかった作戦は作戦でもなんでもない。何か発動の条件が満たされていなかった、またはそもそもの作戦の大前提に設定ミスがあったということになる。前者としては、2017年・2019年世界選手権の時のような「体力を消耗して思考力・判断力が落ちる(2019年は脳震盪による)」現象が起こったという見方が出来るのだが、今回語りたいのは後者について。

eJudo Photo
原沢vsリネールは3位決定戦で実現。前戦のショック冷めぬ原沢はこの試合も落とすこととなった。

大前提としての設定の誤り。それが原沢の「勇気」だと思う(前者の「体力消耗で思考力が落ちる、に関してもそのままカッコの中身を入れ替えてもらえばいい)。作戦の実行は、原沢の勇気の発動を前提条件としていた。だが原沢自身は、そしてスタッフは、本当に原沢のことを、大舞台の土壇場で、体の奥底から勇気を絞り出して乾坤一擲の大勝負をするタイプの選手だと認識していたのだろうか。

我々が普段の試合ぶりから抱く原沢像は、外野の想像を超えた飛び抜けた勇気を発揮して力関係を飛び越えるようなメンタルモンスターの姿ではない。圧倒的な資質と技を基に、淡々と出来ることをやっていく、そしてその「出来ること」のベースラインが凄まじく高いから勝っていくという「順行運転タイプのモンスター」だ。

そしてここを力説したいのだが。「勇気」がないこと自体は決して悪いことではない。この言葉には語彙自体に圧倒的な肯定ニュアンスがついてしまっているのでドライに考えにくいのだが、問題は、「ないこと」を受け入れる自己理解があったかということだと思う。自分が切所で閾値を超えた勇気を発揮できるタイプではないのであれば、これを己の前提条件として受け入れた上で、ではどうすれば勝てるかを考えればいい。これは「勇気」に限ったことではない。才能がないなら才能がないなりの勝ち方を考えればいいし、スピードがないならないなりの戦い方を考えればいいし、緊張が止まらないタイプなら緊張する自分を受け入れた上で戦う方法を考えればいい。体力が落ちると思考力が極端に落ちるのであれば、その致命的な現象が起こらぬことを最優先にものを考えればいい。極端なことを言えば、さほど柔道が好きじゃない選手は、好きじゃなくとも仕事として試合に勝つ方法を考えて、割り切ってキャリアを続ければいい。これまでの試合や言動を観察する限り、筆者は原沢が自分自身を、圧倒的なプレッシャーが掛かる場で一段上の勇気を奮えるタイプだと認識していたとはちょっと思えない。少なくとも、冷静に計算して「まあ、俺のことだからそこまで追い詰められれば力が出るだろう」と芯から考えられるタイプであったとは思えない。ここを見つめずに、土壇場で勇気は出るはずだ、あるいは「出さなければいけない」という言葉で、正味の自己像に蓋をしていたのではないか。そして、コトが「勇気」というそもそも語彙の中に圧倒的肯定評価ニュアンスを孕む、勝負の世界で生きる人間としては触れにくいものであるがゆえ、これが「あまりないタイプ」ということを直視することも、スタッフと共有することも出来なかったのではないか。そしてスタッフは、コトが「勇気」であるだけに、これが「ない」という前提に立つことをどこか酷と考え、「ある」という前提条件で塗りつぶして、目を瞑っていたのではないか。

前提条件が崩れたときに、作戦は作戦でなくなる。「勇気」という言葉はやはり語彙自体に評価を含み過ぎる言葉なのでここは仮に「A」として話を続ける。組み手や具体的な手札は作った、これと同じ乾いた発動条件としてもう1つ必要なはずの「A」は、実は、手持ちがなかった。実際はないのに、あることを前提として作戦は立てられている。このとき「A」は「あるはず」「あって欲しいはず」の仮定条件に変わる。そして作戦は作戦ではなく、単なる「願望」に堕ちる。

この数か月たびたび使って来た言葉を繰り返せば、これは「自己理解」の誤りだ。だから筆者は、原沢には勇気がなかった、なぜ技を掛けないんだ、と責めるつもりはあまりない。もちろんあの切所でプレッシャーに打ち勝ち、私たちが想像出来ないような勇気で勝負に出る姿(ファンがスポーツに仮託するものがあるとすればこういうところであると思う)は、観たかった。しかし、出来なかったものは仕方がない。言うことがあるとすれば、なぜそこでこれまでの試合のように勇気が出ないはずの自分を見つめて、知って、受け入れた上で、そこから作戦を考えてくれなかったんだ、ということになる。

ここ数か月のコラムで繰り返してきたフレーズをもう一度言えば「嘘は、本質的強化の天敵」だ。今回負けた選手たちにはどこかこの自分に嘘をついていた、自己像をまっすぐ見つめられなかったところがあると思っている。この「嘘」は、「語彙自体に既に評価軸を含むもの」「事象自体に評価のラベルが貼られるもの」の周辺に多い。前者なら例えば、「勇気」、後者なら例えば「負け」である。後者について少し言えば今回金メダルを獲った選手は、「負け」との付き合い方が上手い。大野将平や髙藤直寿、永瀬貴規らは体内に「負け」を内包して、取り込んで、その上でものを考えている。大野は度々口にするように、弱い自分を受け入れて、その上で自分がどう強くあれるかを考えている。(※そのうち書くつもりだがいったいに日本の女子選手はその育成土壌ゆえか「負け」との付き合い方、ここから何を掬いとるかが上手くない。全否定と全肯定を行き来する選手が多い印象だ。新井千鶴はこの数か月でこの単純往復運動を抜け出したからこそ、勝ったと見立てている)

表出の仕方があまりにも酷であったが、原沢の負けも、ブダペスト世界選手権で敗れた選手たちと同根。自己理解の誤りが大きかったのではないかと見立てる。もし「いま一歩の勇気がなかった」ことが敗因というのであれば、それは「この場で勇気が出ない自分」を想定し、受け入れることが出来なかったという、もっとも大きなものを見つめる必要があるのではないだろうか。

そして、これはかつて指摘させて頂いた「受け」の問題と同じだと思っている。原沢があまりに強すぎるから、二本持っていない状態での「受け」の脆さは精査されることなく放置されて来た。同じようにこれは、原沢があまりに強すぎるゆえ、直視されずに来てしまった、それも本質的な問題だったのだと思う。

ここ一番で掛けられない、思い切った勝負に行けずに固まってしまう自分は過去に立ち現れていたはず。そこに対する準備が欲しかった。残念で、悲しい試合だった。

※ eJudoメルマガ版7月30日掲載記事より転載・編集しています。

→eJudoトップページに戻る
→「ニュース・マッチレポート」に戻る
→「書評・DVD評」に戻る