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【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第106回

(2021年3月8日)

※ eJudoメルマガ版3月8日掲載記事より転載・編集しています。
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第106回
衝突のよりて起るゆえんは、一には各自の偏見より起る。
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嘉納治五郎師範

資料提供 公益財団法人講道館
copyright:Kodokan Judo Institute

※写真の無断転載および転用を厳に禁じます

出典:「協和と衝突」国士4巻31号 明治34年(1901)4月
(『嘉納治五郎大系』4巻103頁)
 
個人と個人、団体と団体、果ては国家間、様々なレベルにおいて「衝突」が「精力善用」「自他共栄」に反することは、直感的に理解いただけると思います。とは言え、頭で分かっていても、日常生活ですら「衝突」を避けられないのが現実ではないでしょうか。
今回は、そんな「衝突」の原因について、師範の「ひとこと」を紹介します。

かのアインシュタインは、<常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのこと>と言ったそうです。少し極端かもしれませんが、常識と偏見が紙一重であることを示唆しています。「偏見」というと何か特別なものに感じますが、平たく言うと、人それぞれの「当たり前」や「普通」が、絶対的と思うことから生じる<物の見方>です。
師範は冒頭のことばの後に、(衝突が)<一方から観たる真理のみを考え>ることから、生じると続けます。たとえ「真理」でも、「一方」から見ていれば、「偏り」があるわけです。

「セロリ」という曲があります。
育ってきた環境から生じる価値観の違いを「セロリ」というタイトルに凝縮した、この有名な歌は、一緒にいるために、その違いを認め、理解や妥協といったことに頑張るという内容だと筆者は理解しています。

既婚者の方々、新婚時、自分(あるいは自身の実家)にとって当たり前だったことが、相手にとっては違って、驚いたことはありませんか?家事の仕方や、行事の過ごし方、冠婚葬祭などなど。
一緒に生活をすることにより、自分では当たり前と思っていたことが、実はそこまで普遍性がなかったことを知るのではないでしょうか。肝心なのはその後です。そこで、自身の常識を振りかざし、「当たり前だろう!」と自説を主張し、ケンカ-衝突-に発展したことのある方・・・少なくないと思います。
 
師範が、結婚生活における「衝突」なんて想定するわけがない。筆者の牽強付会だと思うか方もいるかもしれませんが、それは誤解です。たびたび紹介している通り、師範は、日常生活からも、可能な限り、精力の浪費をなくそうとしています。
家庭内のことであっても、偏見からおこる「衝突」とそこから生じる無駄な精力の消耗を見過ごすことを師範は許さないでしょう。

育ってきた環境が違えば、考え方や常識が異なるのは当然です。そのことを前提に、まず自身の考えが偏見ではないかと「互い」に考えることが大事でしょう。
自分とは異なる考えを、受け入れるスタンスは、第6回で紹介した「大量」にも通じるものがあります。

話をまとめる都合で恐縮ですが、師範が衝突の原因として他に挙げているものも紹介します。
まず、「利欲と驕傲(きょうごう)」です。利欲とは、<自分の利益を得ようとする心>、驕傲(きょうごう)とは<おごりたかぶること>と言えるでしょう。そして、次に「感情」です。これに今回の「ひとこと」で紹介している「偏見」を併せて、「衝突」の原因としています。
この3つは分かれているものの、根の部分では深く繋がっています。

師範は、<互いに感情を離れ、事を決めようと努力し、自己の利益をかえりみず、全体のことを考え、公平な判断を下そうとすれば、多くの衝突は避けることは出来る>と言います。
世界中の人々がこのような考え方、行動をすれば、家庭から国家間、社会の多くの問題も円満に解決出来るかもしれません。
今、世間は「衝突」だらけです。だからこそ「精力善用」「自他共栄」を目的にしている我々から「衝突」を減らすことにつとめたいものです。

※引用は、読みやすさは考慮して、『嘉納治五郎大系』から行っています。

著者:元 敏季(ハジメ・トシキ)
1975年生まれ。柔道は中学校から始め、大学までは競技を中心に行うが、卒業論文を機に柔道の文化的側面に関心を持ち、大学院へ進学。凡そ10年、大学院・研究機関に所属するも、研究とは異なる分野の仕事に就き現在に至る。ライフワークとして嘉納治五郎に関する史料を蒐集・研究し、その成果を柔道振興のため発信しようとしている。

※ eJudoメルマガ版3月8日掲載記事より転載・編集しています。

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