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【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第105回

(2021年2月8日)

※ eJudoメルマガ版2月8日掲載記事より転載・編集しています。
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第105回
試合そのものは、決して柔道修行の終局の目的ではない。
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嘉納治五郎師範

資料提供 公益財団法人講道館
copyright:Kodokan Judo Institute

※写真の無断転載および転用を厳に禁じます

出典:「柔道試合審判規程の改正について」
『柔道年鑑』 大正14年(1925)年1月 (『嘉納治五郎大系』2巻436頁)
 
第三波が猛威を振るい、いくつかの地域に緊急事態宣言が再発出、延期。コロナ禍はいまだ私たちの生活に影を落としています。当たり前が当たり前でなくなった日々。少しずつ、かつての姿を取り戻しつつあるものの、コロナ禍以前の生活の貴重さを多くの人が実感しているのではないでしょうか。
私たち柔道界でも、同じことが言えるでしょう。それでも練習やトレーニング、そして試合も、少しずつ再開し、コロナ禍以前の姿に向かって動きはじめています。
そんな中、水を差すようですが、今回は冒頭の「ひとこと」を紹介します。

柔道界のみならず、スポーツ界を代表する論客として活躍する山口香・女子七段はその著書で、「(柔道界には)「強い者が絶対」という思想がある。柔道家同士でも「お前は弱かった」「強かった」と勝敗の結果にこだわり、いつまでも忘れない傾向がある」と述べています(『残念なメダリスト』119頁)。もちろん、全ての人がそうではないでしょう。ただ、そういった傾向が極めて強いこと、現役のころの強さが、その後の柔道界における発言力に影響を与えること。そして、「試合」が「強さ」の証明装置であることに、異論はないでしょう。

現在、修行者の多くは「試合」を目的として練習しています。中学生以上で柔道に携わっている人のほぼ全員と言っても過言ではないでしょう。結果、否応なくこの試合成績による「強さ」のヒエラルキーに組み込まれます。
そして、若い頃、試合にむけて一生懸命、取り組んだ人ほど、この縛りは強くなります。自らの多くを捧げて努力したにもかかわらず、敵わなかった人たちに対する、負い目やコンプレックスは、勝ち負けが価値の物差しである限り、簡単には拭いきれません。

試合に偏向した柔道に対して、師範が発した警句は、本連載で度々紹介していますが(第5回、 第10回第59回など)、師範は試合自体には否定的ではありません。むしろ、奨励しています。

師範の時代、柔道を含む様々な競技において、試合に対する過熱ぶりが社会問題となり、否定的な意見も多く聞かれたようです。そんな中、問題は、試合そのものではなく、普段の指導だと喝破したのが嘉納師範です。
<試合は奨励するが、柔道の最終目的ではない>、今回の「ひとこと」も非常にシンプルで分かりやすいでしょう。
 
コロナ禍は、日常生活が決して盤石ではなく、簡単に崩れることを教えてくれました。これから先、同様のことが起こらないとは言えません。新たな病気、または戦争・自然災害が発生するかもしれません。今以上に、試合が出来なくなる状況も十分に考えられます。
試合が出来なくなった時、柔道はその価値を、やる意味を、存在意義を失ってしまうのでしょうか。否、師範の理想とした、試合を最終目的としない講道館柔道はそんなことありません。

高度に競技化された柔道では、程度に違いはあっても、試合に勝つことを目的に行う日々の練習は、並大抵のものではありません。結果、得られる心身も、常人のものではありません。
一方で、試合で勝つことを目的にすればするほど、「勝った負けた」の価値観に縛られる傾向も強くなります。中には、自身が競技をリタイアした後は、指導者として、その価値観を次世代へとつなげていく人もいるでしょう。
しかし、勝った負けたの舞台が、容易に失われることが、コロナ禍で分かりました。

極論ですが、オリンピックを頂点とする競技の世界は、社会より寿命は短く、脆弱なものです。オリンピックがなくなっても社会は成立しますが、その逆はありえません。柔道の未来を考えた時、オリンピックを頂点とする競技主体だけでは必ず行き詰る日が来るでしょう。
筆者は競技としての柔道や、試合に勝つための努力を否定しているわけではありません。ですが、価値の物差しが、それだけになることを危惧します。そして、柔道を通して、強靱な心身の力を得た人々が勝った負けたの世界に閉じ込められることを惜しむのです。

欧米では、オリンピアンですら、セカンドキャリアとして、別業種を選ぶことも少なくないと聞いています。日本でも、学生時代、柔道に一生懸命取り組んだ後、別の分野で著名人とされる程、大活躍した人たちは、少なからずいます。厳しい練習に耐えてきた人であるならば、柔道界にとどまらない、別の分野でも活躍、社会に貢献する力があるはずです。

柔道を一生懸命頑張った人たちのセカンドキャリアが柔道しかない。そして、その柔道界の価値観が勝った負けただけ・・・。こうして、言葉にすると寂しい世界ではありませんか。
オリンピックという大舞台ですら揺らいでいる今こそ、柔道の価値が金メダルの数に代表される「強さ」だけで語られないように、価値の物差しを多様化していく必要があるのではないでしょうか。それこそが講道館柔道の目的を「己の完成」と「世の補益」とした師範ののぞんでいたことでしょう(師範がオリンピック種目に柔道をいれることについて、どのような考えを持っていたかは第84回で紹介しています)。

本連載第98回で、紹介した関東大震災直後の論考「禍を転じて福となせ」。その後、師範は「禍を転じて福となすべし」という似たタイトルの論考を発表しています。そこでは、関東大震災後について、<禍を転じて福となしたと言い得るだけのことが出来なかったことを遺憾だ>と記しています。
 
我々は今の状況を、「あの時は大変だった」という1つの思い出にするのか、それとも「コロナ禍で大変だったけど、あの時、柔道が変わることが出来て良かった」と、<禍転じて福となす>の事例とするのか岐路に立っています。

コロナ禍は、講道館柔道のあり方を考える良い機会を与えてくれているのではないでしょうか。最後にもう一度繰り返します「試合そのものは、決して柔道修行の終局の目的ではない」。


※引用は、読みやすさは考慮して、『嘉納治五郎大系』から行っています。

著者:元 敏季(ハジメ・トシキ)
1975年生まれ。柔道は中学校から始め、大学までは競技を中心に行うが、卒業論文を機に柔道の文化的側面に関心を持ち、大学院へ進学。凡そ10年、大学院・研究機関に所属するも、研究とは異なる分野の仕事に就き現在に至る。ライフワークとして嘉納治五郎に関する史料を蒐集・研究し、その成果を柔道振興のため発信しようとしている。

※ eJudoメルマガ版2月8日掲載記事より転載・編集しています。

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