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【eJudo’s EYE】「研いだ」阿部と「足した」丸山、自己理解と準備の差が勝敗分けた/東京2020オリンピック柔道男子66㎏級日本代表内定選手決定戦総評

(2020年12月17日)

※ eJudoメルマガ版12月14日掲載記事より転載・編集しています。
【eJudo’s EYE】「研いだ」阿部と「足した」丸山、自己理解と準備の差が勝敗分けた
東京2020オリンピック柔道男子66㎏級日本代表内定選手決定戦「総評」
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歴史に残る一番は総試合時間24分、史上最長試合となった。
(写真提供:全日本柔道連盟)

文責:古田英毅
Text by Hideki Furuta

熱戦から2日が経ち、ようやく映像で試合を見返す時間を得た。1試合を見返すのに40分強。いやはや、まさに前代未聞の一番であった。

映像で補完したディティールを一応記すと。阿部の組み手が予想以上に厳しかったこと(引き手の抱き込みは8階観客席からでは確認し辛かった)、同じことだが丸山が予想以上に組ませてもらえておらず不完全な状態での技が多かったこと(たとえばGS6分秒の高速巴投の引き手が指を握る不完全なものであったこと、これは8階向こう正面の報道席からは反対側でわからなかった)、あとは決着の場面(背中側かつ最も遠い正面側の攻防で、ディティールの確認は困難であった)の精査と気づき、観客席から感じられた阿部の目の光の強さがあらためて確認出来たこと(かつての対丸山戦の阿部の目には焦燥や恐れが感じられたが、今回は消耗しても目が「死んでいない」と見立てていた)、といったところ。

試合を見返し終わって。まず当たり前だが当日書いた「早出し評」に撤回すべき部分はない。徹底的に相手に組ませず技を積んで「指導」を狙いながらひたすら訪れる「際」を待った阿部、一方阿部の「徹底して組ませない」作戦に具体的な対抗策薄いまま柔道の強さ自体で対抗し、結果として苦杯を喫した丸山。「早出し評」で提示したこの構図が今回の評の大前提となる。

その上で。勝敗を大きく分けたのは「準備」と「自己理解」の差であると考える。特に自己理解。これがもう、試合の背骨からそれこそ毛細血管に至るまで染みわたって試合を規定してしまった。

この読み解きの入り口になるのは、丸山の左内股。早出し評でも提示した「丸山が内股を掛けない」(より正確に言うと内股のプレッシャーが掛かっていない、掛かる組み立てをしていない)という点景から色々なことが紐解ける。

■ 方向性と思考量、まず「準備」の差にフォーカスする
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引き手を争う丸山と阿部。丸山が二本持つ機会は僅少だった。
(写真提供:全日本柔道連盟)

まず丸山の準備。徹底的に相手の良さを消す戦術に打って出た阿部に対して、ちょっと驚くほど打開策がなかった。阿部が2019年グランドスラム大阪決勝の成功体験をベースとして、徹底的に組ませず技を先に出す戦術に打って出ることは容易に想像がついたはず。プレビューコラムでも書かせて頂いた通り、例えば釣り手の袖を殺してくる阿部に対して丸山がどういった手段を持ち込むかという具体的な戦術的攻防が我々の観察の最初のポイントであったわけだが、みるべき手立てはほぼなかったと言っていい。ほとんどの時間が、大きく言って、丸山が片手で組み手のランクを上げれば片方は必ず阿部に下げられるという「片手交換」に費やされ、この合間を縫って技を仕掛ける方法論に勝る阿部が先手を取り続けた。結果丸山は芯を食った内股は出さず出せず、ここから勝利のシナリオは狂った。

これはまったくいただけない。厳しい言葉で言えば少々期待外れであった。組むも組まぬもまず期すべき戦いの方向性が違う。当方が期待したのは「組ませない阿部」の戦術を前提に「どこを持っても内股へと至る圧が掛かり、しかもその形から具体的に投げる方法論」を持ち込んで有無を言わせぬ柔道を繰り広げる丸山の姿であり、そしてそれが出来る時間と環境が丸山には十分備わっていると見ていた。それは、とりもなおさず丸山の側には常に大野将平という具体的な手本がいるからだ。筆者の「論理的には丸山有利、阿部にもチャンスあり」という事前評価には、当然ながら暗黙のうちに「大野将平と一緒に稽古をしている」という点が織り込まれている。脳内でシミュレーションしてもらうとすぐにわかると思うが、丸山の弱点とされる部分には、大野はほぼすべて、それも論理的な解を持っている。大野の真の凄さとは圧倒的なフィジカルでも技一撃の威力でもメンタルの強さでもなく(もちろんどれもとんでもなく高いレベルにあるのだが)、その戦い方のシナリオ構築の確かさ豊富さとそれに沿った具体的な技術の練り込み、つまり「論理」の高さにある。相手がどんなに「良さを消す」挙に出て来ても圧を掛けられる持ちどころと、しかもそこから具体的に投げを決める技術があり、ゆえにあらゆる局面を譲らず、しかも最後は決め切ってしまう。阿部がもっとも怖いのは丸山の左内股、どんな状況になっても最後はここに行きつかれてしまうとなればいかに受けが上手くなっていても(上手くなっていた)最後は手が詰まるし、内股への恐怖を晒すことでこれまで決めて来た浮技や巴投も再び生きてくる。組ませてくれない相手にそれでも把持し得るポイントで両手の圧を掛けるには、そしてそこから内股で投げるためには持ちどころの手札がどれだけ必要で、決め切るにはどんな体捌きが要求されるのか。傍らにいる大野はすべてを持っている。すべてを学べなくても錬磨の方向性を掴むには十分過ぎる手本のはずだ。しかも、稽古の時間は十分。筆者はこのコロナ禍期間、自らがランニングをし(取材すべき大会がなかったわけだ)、本を読み、食事をする、そのふとした合間に、いまこの瞬間ひたすら「どこを持っても内股で投げる」論理を磨いて鬼と化している丸山の姿を想像し続けていた。決して組ませない阿部、しかしその「組ませない」手だての先には丸山が必殺の内股へと繋がる手段を既に用意しているという蟻地獄、そしてその恐怖にさらされたときに阿部はいったいどんな行動を取ってくれるのか。こんな胸躍る想像を、半年間巡らせ続けていた。あまりに想像する時間が長過ぎてこの絵を勝手に脳内前提としてしまったので(試合が始まってからそのことに気づいた)、実際に立ち現れた戦いの様相には少々戸惑った。丸山サイドは、丸山があまりに強すぎるため(これは確かだ)に、体調不良で苦杯を喫したグランドスラム大阪の評価を「コンディションさえ整えば絶対に負けない」という形で見誤り、柔道の地力自体を上げることにリソースを注ぎ込み過ぎたのではないか。阿部がグランドスラム大阪以上に相手の良さを消す戦術を徹底してくることを予想していなかったか、あるいは予想していてもそれに目を瞑って地力を上げることに注力し過ぎて戦術的武装を軽視したのではないか。刹那的とさえ言える組み手の対応、組み手を幹ではなく枝葉と据えたような今回の戦いぶりからはそう観察せざるを得ない。己の柔道スタイルがどうであれ、相手が全てのリソースを組み手に注ぎ込んで来ると予想される以上、主戦場となり得るこのフィールドを全力で塗りつぶすアプローチはあって然るべきだった。世界一の「論」の持ち主をすぐ近くに得ながら、「論」で後手を踏んで大一番を落とした。準備不足との指摘は受け入れざるを得ないだろう。

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阿部は丸山の釣り手の袖を抑え、組み合わずに自らが先に掛ける戦術を徹底。
(写真提供:全日本柔道連盟)

一方の阿部。過去喫した3連敗とグランドスラム大阪の試合の成功体験から、こちらは「持たせないまま技を仕掛ける」「『指導』を先行して相手を焦らせる」という戦術をさらに先鋭化。このシナリオには2つの出口があり、まず1つは「『指導3』で勝つ」というもの。ただ、阿部サイドはこの甘過ぎるシナリオをあくまでオプションだと捉えていたはず。それは故意のテクニカルファウル(GS3分44秒の手首握りや、後帯を持っての圧力演出)が、「指導2」同士になってからはほぼまったくない(決着前に3秒、一瞬、一瞬と手首を握る動作はあった)ことで、逆説的にわかる。阿部サイドはこの大一番における反則失陥の可能性にかなり気を払って戦術を組み立てており、「指導3」による決着はよほどのことがない限りないと踏んでいたはず。「指導」先行のシナリオの主筋は、次なる「指導」失陥を恐れて手の詰まった相手が不十分な体勢のまま技を仕掛けてきてくれること。つまりは阿部最大の長所である際(きわ)の強さ、「瞬間を掴む力」が生きる局面の現出、プレビューコラムでいうところの「相手の土俵」に入らざるを得ない状況に相手を追い込むことだ。手を絡め、釣り手の袖を殺し、引き手を争えば嫌うだけでなく深く腹側に抱き込み(内股が掛けにくい)、審判の死角にあっては平然と手首を握り、捨身技の可能性があると見ればなりふり構わず低く構える。位置取りも絶妙で(ぜひこの観点から試合を見なおしてみて欲しい)、組むまでは決して前に出続けるわけではなくむしろ自ら場外際まで下がるのだが、組み手を絡ませながら足技を駆使して回り込んで常に相手に場外を背負わせ、結果的には試合場の外に押し出してしまう。これは昭和時代にテクニシャンの「止め屋」が鷹揚な本格派と引き分けるために使っていた戦術であり、そして組ませないまま位置取りと先手攻撃で粘って体の力を生かすチャンスを待つというのはかつて日本勢相手に海外選手が大物食いを演じた際の常套手段でもある。そして仕掛ける技は背中を着くリスクが少なく見栄えがし(大きく振りかぶる片手背負投など)、なおかつ縺れれば得意の「際」勝負に繋げられる技術を中核に据える。さきほど、丸山サイドの準備方針を「戦術的武装を軽視した」と評したが、こちらは「戦術的武装に命を掛けた」と言っていい。

そしてここでフォーカスすべきは、この阿部の採った戦い方が典型的な「弱者の兵法」である点。ここで話は「準備」から、次なるトピックである「自己理解」へと移る。

■ 自己理解の差が、試合全体を規定した
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先んじて仕掛ける阿部。使う技術は攻撃の印象が強く、背中を着く可能性が薄いものを中核に据えた。
(写真提供:全日本柔道連盟)

阿部は、相手の側を強者と規定して、組み合って勝つことは難しいという立場から試合を組み立てた。組まずに、いわば柔道をせずに、一方的に攻める状況を作ることを考えた。その結果採った作戦は、相手に徹底的に組ませず先に技を積み、状況を作り続けること。典型的な「弱者の兵法」である。「一本柔道」を標榜して豪快な投げを連発していた阿部の信奉者、たとえば勃興期の2015年あたりから世界王者到達の2017年くらいまでの阿部ファンがいきなりこの絵を見せられたら、かなり驚くのではないだろうか。

阿部は丸山という強敵に確実に勝利せねばならないというハードル、つまりは己よりも強い相手に勝つという命題を前にしてリアリストにならざるを得なかったし、丸山という「本物の本格派」の前では、柔道自体が強い本格派という看板を(少なくとも一時的には)下ろさざるを得なかった。丸山というフィルタを通して、自己の本質を見つめる作業を行ったわけである。余計なものを削ぎ、全ての飾りを外し、研ぎに研いだその本質こそ、居合抜きの「組み際柔道」であり、己の強さは「体の強さと反射神経の良さが生きる『際』にある」との達観ではなかったか。ネット上などで阿部の試合ぶりを「しょっぱい」と評する声があると仄聞するが、現状の力で、己の良さを生かして、かつ己より強い相手に勝たんとする手段として、この戦い方は本質的である。半端な選手が相手では、阿部は「投げ一発の威力に秀でた、柔道(組み合っての攻防)自体が強い本格派」とのセルフイメージを捨てることは出来なかったであろう。プライドを捨てた正しい自己理解と、ここをスタート地点とした戦略戦術の練り込みが、阿部を勝利に導いたのだ。

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丸山本来の組み立ては左内股が軸のはず。写真は東京世界選手権1回戦、パヴェル・ペトリコフから内股「一本」。

一方の丸山。少なくとも、何が何でも内股というシナリオに沿った組み立てを採らなかった。内股の恐怖を晒さぬまま、掛けぬまま、かつて決め技となった捨身技や新たな出口である肩車に頼った。これは単なる「どっちで投げるか」という選択の問題ではない。試合全体を規定し貫く「眼目」に関わってくるのだ。柔道競技者ならわかると思うが、ものすごく簡単に言って、切れる一発を持つ内股ファイターが内股を掛けずに周辺の技に頼ってくれることほど楽なものはない。かつて丸山の良さを「器用さ」と評する記事を見たことがあるのだが、確かに丸山は器用である。大概のことは出来てしまう。だから捨身技という変化球でも「一本」が取れるし、肩車を持ち込むことも出来る。今回も内股をまったく掛けていないわけではない。ただ、周辺の技に頼り過ぎた。相手は、内股の恐怖があるから、いま目の前で行っている駆け引きを誤ると知らず内股というゴールに連れていかれてしまうのではないかという恐怖にさらされているから、最終的に変化球や裏技にも吹っ飛んでしまうのである。本格派との勝負とは、そういうものなのだ。たとえ内股で決まらなくても、勝負全体を規定するのは内股。内股ファイターの試合はかくあるべし。

だから丸山は、己を本格派と規定するのなら、前述「準備」の段階でゴリゴリ内股に持っていくための手段をまず磨くべきだったし、筆者は当然そこを一丁目一番地に据えた練り込みを行っていると勝手に想像したわけである。そしてそこまでの準備が出来なくても、現場で打てた手はある。「だって持てないんだから内股は掛けられないじゃないか」という声もあろうが、とはいえ、丸山はかつて片手状態の脚だけで阿部を跳ね上げ、プレッシャーを掛けていた来歴がある。内股の圧が掛かれば他の技が掛かるということであれば、極端な話「待て」の後に両手で持って一発内股で放ってやっても良かった(実際に、2019年選抜体重別では「待て」の後に綺麗に阿部を投げ飛ばしている)。これまで事前評その他で阿部が前に出る行動を「恐怖を乗り越えて」と表現してきたのは、前に出ると丸山には内股があるからで、この構図で抑止力である内股を外してしまえばそれは阿部は嵩に掛かる。「いやこの試合の内股は見せ技、勝負技は巴投か肩車で考えていたはず」という意見に対しては組み立てのチグハグさを指摘したい。見せ技でビュンビュン仕掛けなければいけないはずの内股は二本良いところを持たないと掛けず、しかし二本持つための具体的手段は練っていないからそもそもなかなか掛けられない。見せ技の内股が効いていないその状態で片手状態からの肩車や巴投などの勝負技を仕掛けても、当然ながら作りが効いておらず掛からない。二本良いところを持ってから掛けるというアプローチからすると内股は勝負を決める「ゴール」でありギリギリまで神棚に飾っておく殿下の宝刀と位置付けられるが、実際の組み立ては取り置かずにビュンビュン内股を掛けていないと決まらないはずの捨身技がゴール。この矛盾。戦術がまったく噛み合っていない。

これは、丸山が己を「本格派である」と正しく自己理解し、「まず内股で投げに掛かることこそその生命線」と考えて柔道を組み立てれば、全て上手く転がったのではないかと見立てる。何がなんでも内股という姿勢は、準備段階においては大野将平のようにその入り口と出口を磨き上げて相手の組み手をも封じるということに繋がってくるし、試合の現場においてはまず仕掛けることによって相手を恐怖させしめ他の技を生かすという作りにつながる。阿部の側が「相手のほうが強い」「組み合ったら負ける」という分析から「己が真に強いのは際勝負」という自己理解に辿りついことと比較すると、丸山は「自分のほうが強い」という正しい自己評価は出来ていたが、ここに寄りかかってしまい、「己がゴリゴリの本格派であり、内股で投げに行くことこそが一丁目一番地」という自己理解まで辿りつけなかったのではないか。結果、なまじ器用であることもあり肩車や浮技など周辺の技を「足す」方向で柔道を組み立てた形になり、それは有機的な効果をもたらす掛け算でなく単に技種を増やした足し算に終わってしまった。己が本格派という強烈な自己理解、そして内股こそ得意技だというプライドがあれば碁盤の目はすべてがひっくりかえった可能性がある。丸山のブレインたちは、丸山のあまりの強さに一種の完成を感じ、「磨く」のではなく「足す」方向に舵を切ってしまったのではないだろうか。丸山のあまりの才能に、何でも出来てしまうその能力のゆえに「足して」しまったのではないだろうか。本格派の看板を下ろした本格派が、地力のみで戦った試合。むしろそれでも勝ってしまうのではないかという丸山の強さには驚愕するしかないが、すべてを捨てて自己の本質と向きあった阿部と、本格派という本質を突き詰め切れぬまま周辺の技を増やした丸山。「研いだ」阿部と、「足した」丸山。自己理解の差が準備の質に反映し、試合の展開の骨組みを規定し、どころか細部に染みわたり、最終的にはそれが勝負を分けたと考える。これがこの試合から得た筆者の「評」だ。

筆者は勝敗決した今でも、柔道自体が強いのは丸山の方だと思っている。海外の「面倒くさい相手」との対戦相性からも、世界一により近いのは丸山ではないかと思う。もっと言えば、多くのファンの「これぞ日本柔道」という思いの依り代となり得るのは丸山の柔道だと思う。それでもこの試合の勝者は阿部が正当だと考える。プライドを捨てて見つめた本質、練りに練った戦術、恐怖を乗り越えて戦い切った意地。勝者は明らかに阿部だ。両者の熱戦と、阿部の勝利を心から称えたい。

■ 丸山の意図は大内返か捨身技か、決着のシーンを振り返る
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決着は阿部の大内刈「技有」。なぜこうなったのか、解釈と議論に足る場面であった。
(写真提供:全日本柔道連盟)

決着はGS延長戦20分0秒、阿部の右大内刈「技有」。

前述の通り筆者が陣取った8階の記者席は背中側、しかも技が決まった正面場外際からもっとも遠い向こう正面である。さすがにこの技のディティールに踏み込むだけの観察を得ることは出来なかったのだが、ようやく映像で見ることが出来たので補完する。

この場面をピックアップして一章を割く理由は2つ。1つは豊かな試合、レベルの高い攻防とはいかに語るに足るものか、仮説を立てて議論を楽しむ甲斐のあるものなのかということをお伝えせんがため。もう1つは、さきほどまでの論考の続き、両者の戦術についてもう少し語るためである。

平時の戦評風にルポすると、この場面はこうなる。

阿部の釣り手は下から前襟を握る良い形、これを丸山が上から外側で持ち返しての攻防となる。阿部が引き手で袖を掴み、これを引き寄せながらまず膝裏への右小外刈で相手の動きを止める。外して一歩下がった相手にまず浅く右大内刈、さらにバックステップした相手を追いかけ右大内刈の形で足を差し入れる。この過程で釣り手がフリーになったこともあり間合いは超近接。ここに丸山が大内返を仕掛けて体を捨てるも阿部は腰を切り切らぬまま上半身のみ振り向く形で相手を強引に制動、丸山たまらず体側を着かされ、「技有」。熱戦ついに決着となった。

一般解として当たり障りなく記述してみたが、この場面は非常に面白い。間合いが近すぎ、腰を切り切らぬまま無理やり相手を制動した阿部の刈り足は少々異様な形(最初の感想は、なぜ阿部はこれで膝が壊れないの!?であった)。いったい本当は何をしようとしていたのか、そしてなぜこの形になったのか。また、終始自身の実力が上であるという見立てで試合を進めて、しかも直前には自身優位の時間帯も作り(さらにこの技の直前には苦しくなった阿部がGS3分20秒以来我慢していた「手首抑え」を繰り出している)、あとはじっくり試合をすればいいはずの丸山がなぜ阿部がもっとも得意とする「際勝負」に応じてしまったのか。これを巡ってさまざまな解釈が可能な場面だからだ。

(1) 阿部の大内刈が、釣り手がフリーのために両者の予想以上に深い間合いで入った。ゆえに丸山はもう大内返に出るしか手段が残されていなかった。

技の進行は、小外刈(阿部)→大内刈(阿部)→大内刈(阿部)→大内返(丸山)。おそらくもっとも多くの人の賛同を得られる解だと思う。おそらくオフィシャルの解釈(たとえば講道館の雑誌「柔道」)はこういう形に落ち着くのではないだろうか。芯を食った解である。

(2) 阿部の大内刈の後に小内刈が来ると予期した丸山が浮技を放ち、これに阿部の大内刈がかちあった。

先日「eJudo’s EYE特別編」で配信させて頂いた、上水研一朗氏の見立て。これまで軸足を小内刈でずらされることを気に掛けていた丸山が、「大内・小内」の襲来を予期して浮技に出たというもの。大内刈に対して相性が悪い浮技をなぜ仕掛けたのか、という疑問と(小内刈であれば効く)、これまでの経緯から丸山が小内刈の襲来を意識づけられていたはずとの推測による。「あくまで憶測」との注釈つきながら、論理上の入り口(これまでの試合進行というコンテクスト)と出口(実際の技術)を備えた、かなり色気のある見立て。技の進行は、小外刈(阿部)→大内刈(阿部)→浮技(丸山)・大内刈(阿部)。

(3) 阿部の移動終わり(技の掛け終わり)に丸山が浮技を狙い、そこに阿部が異常な反射神経で急遽大内刈を合わせた。あるいは大内刈がかち合った。
 
これもかなり面白い。筆者は浮技には一家言ある方なのだが、一見突飛なこの見立てもかなり分があると思う。まず、技の掛け終わりや移動終わりへの浮技がそもそも技術として非常に効くこと。次に何より浮技が丸山の持ち技であること(たとえば谷落はあまりやらない)。またこの反時計回りの浮技が特に相手が右側(丸山の左側)に移動してくるときには劇的に効くこと(少し重心を右に傾けてくれるだけで相当効く)、さらに丸山得意の浮技はほとんどがこの相手の右への移動を捉えたもので、阿部がこの時まさに右(丸山の左側)への移動を試みる動きになっていること、そして左足の使い方が大内返(踏ん張る)ではなく、浮技(まっすぐ投げだす)のそれであること。間合いが近すぎるのが不自然だが、それがまさに失敗の原因であったとすれば納得がいく。試しに「右への浮技を狙う」という観点だけでこの場面を見返して欲しい。確かに嵌りそうと頷けるところがあるはずだ。
またこの見立て、これまで分析した試合のポイントを論理上かなり満たしてくれるのである。つまり「阿部が得意とする際勝負に丸山が誘い出されてしまった(=相手の土俵に踏み込んでしまった)」、「阿部の本質である『一瞬を捕まえる力の強さ』(驚異的な反射神経の良さと体の強さ)が発揮できる瞬間がついにやって来た」ということ。この点で、(2)と同様、入り口と出口を綺麗に備えた解である。もう1つ言えば、この試合一貫して阿部が丸山の捨身技に対してしっかり対応を見せていた(試合後も捨身技への対応をしっかり練習してきたと発言している)、その文脈に嵌る。技の進行は小外刈(阿部)→大内刈(阿部)→浮技(丸山)→大内刈(阿部)。最後は丸山の技に対して阿部が反応した(あるいはかちあった)、という点が前2つと異なるポイント。

(4) 阿部が前技に入ろうとしたところに丸山が谷落、瞬間異常な察知能力で反応した阿部が振り向き直し、大内刈の形で投げ切った。

技の進行は小外刈(阿部)→大内刈(阿部)→前技(背負投or釣込腰/阿部)→谷落(丸山)→大内刈(阿部)。阿部は最後の大内刈の際いったん顔を前に向け、そこから振り向きざまに捩じっている。阿部が背負投に来ると見て、丸山は足を投げ出しての谷落(寝技でいう「真裏返し」)を狙い、阿部は右足を相手の股中に差し込んだまま(阿部はこの位置に足を差し込んだままの前技を比較的多用する)これに素早く反応して振り向き投げた、というもの。これも(3)同様、最後は丸山の技に阿部が反応したという格好で、さらに、これまで分析した試合のポイントに論理的に整合する点も(3)と同じ。この場合、足を着いたまま捩じった刈り足の不自然な形について、もともと前技想定からのアドリブ技であったため、という説明が出来る。この右足は前技を仕掛けるために畳について踏ん張っており、ゆえに切り返しが上半身よりも遅れざるをえず、あの不自然な形に脚(膝)が捩じれたという解釈だ。丸山が普段谷落をあまり見せていないのが疑問点。

どれも面白い。筆者は(3)と(4)を支持、いずれであっても丸山が足を投げ出しての捨身技に打って出、阿部が異常な反射神経でこれに反応し返したとしておきたい。このあたりはファンの方々にもぜひ仮説を立てて、語り合ってもらいたいもの。いくらでも出てくる。それに足る豊かな試合であり、議論に耐え得るレベルの高い攻防であった。

次に、ここから見える両者の戦術の練り込みについて。前述の通り、この戦術的武装という点に関しては阿部サイドの思考投下量が丸山サイドのそれを凌駕していると思う。そしてこの勝負どころで丸山が捨身技(3と4)を選んだことについて。このギリギリの攻防で自らが背中を着く技を選択した、そのあたりにも戦術の練り込みと「毛細血管」に染みた自己理解の差を感じるのだ。これだけ互いを知悉した選手同士が戦うのであれば、最大の得意技が封じられるのは一種当然。阿部は丸山の左内股を封じ、丸山は阿部の右背負投を封じるはず。ではその先にどの技を選択するかということになるわけだが、阿部は前述の通り、背中を着くリスクと偽装攻撃を取られる可能性が少ない技術を選択して試合を組み立てている。捨身技はほとんどない。しかるに、GS延長戦の、肩を少しでも着いてしまえば試合が決まりかねない局面においてなお自分から背中を着く捨身技を、それも下がりながら仕掛ける丸山は、この技選択という点でも少々練り込みが足りなかったという見立てが出来る。

あの、一種思考停止して抜き上げ技の鉈を奮うことですべてを解決してきた阿部がこの戦術的錬磨、そして右出足払の上達に見られる技術的向上の兆し。そして何よりプライドを捨てた「我慢の柔道」。大学2年以来見るべき技術的向上の薄かった阿部の上積みと、大人の戦いぶりには、4月から所属となったパーク24のブレインたちの影響を感じざるを得ない。セコンド(声を出せない)に若手の伊丹直喜氏を送り込み、声を出せる立場に海老沼聖氏が入り、吉田秀彦氏ら重鎮は観客席から時折声を掛ける。色々な局面に「総力戦」の印象を強く持った。これはまったくの余談であるが、そういえば識者がいずれも「流れを変えた」と評する2度の負傷治療中断、あれは現役時代、吉田秀彦氏が中断をきっかけに試合の流れを変えた姿を思い起こさせた。これだけ「相手の良さを消す」柔道に徹しながら堂々「投げに行く姿勢を貫いた」と語るセルフプロデュース力の高さにも彼らの影響を感じるのは私だけだろうか。少なくとも現時点では、阿部のパーク24所属は成功であると感じた。

余談ながら、この「いかにして勝つか」という出口戦略に投下した丸山サイドの思考量の相対的な薄さ、そして丸山の強さ自体に寄り掛かった戦略立案という側面は、たとえば寝技をやらなかったことにも見て取れる。寝技が苦手な阿部をグラウンドの攻防で締め上げる、徹底的にこれでプレッシャーを掛けて先手攻撃を封じる手もあったはずだ。強さ自体の絶対値を上げることに腐心し、具体的な戦術へのリソース投下を緩めた。この点がやはり勝負の死命を差したとあらためて思う。

■ あるべき立場は「検分役」、天野主審の水際立った裁きを支持する
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大一番を裁いたのは天野安喜子主審。冷静、沈着だった。
(写真提供:全日本柔道連盟)

天野安喜子主審は冷静、毅然。素晴らしい裁きぶりであった。決着の場面、遠い向こう正面からでも、天野主審が迷いなく「青」を示したその毅然さに「天野さんがそう見たのだから、阿部の勝ちなんだろう」とまず受け入れてしまうくらい、それまでのジャッジは水際立っていた。

巷間、「阿部の『手首握り』をなぜ取らないのか」「丸山への消極的『指導』が遅い」「『取り組まない』で両者反則負けではないか」との指摘があると仄聞する。これについて少し。この先は批判を承知で書くのだが、この試合はIJFルールこそ採用しているが、IJFの公式試合ではない。日本の大会体系に組み込まれた試合でもない。価値体系の「埒外」にある特別な一番である。敢えて言えばかつての「特撰乱取」。日本が、日本のために、己の価値観と基準を以て自らの納得のためにだけ行う特殊な試合である。その目的は「納得のいく結末で己が国の代表を選ぶこと」。歴史にただ1回、世界にただ1つだけの特別な試合には、その目的に見合ったルールの運用があって然るべきというのが筆者の態度だ。誤解のないように言うと、反則を見逃せというのではない。技での決着を世界中が、そして何より2人の世界王者自身が望むこの試合にあっては、反則裁定(重大な反則ではなく所謂「軽微な反則」)はあくまで「互いが攻め合い、投げによる決着を促す」という本来の文脈で行われるべきだということだ。そしてこのコンテクストの中で、よほどのことがない限り「指導3」決着がないことは両試合者にとっても自明であったはず。両雄ともにこの試合が「指導3」で終わるとは思っていなかったし、何よりそれを望んでもいなかったろう。だから、GS3分44秒から始まる阿部の「手首握り」には「指導」が与えられても良かったのだが、おそらくその場合、GS11分57秒の袖釣込腰空転に与えられる偽装攻撃の「指導」はスルーされたのではないかと推測する。互いが「技で決着をつけなさい」と「指導」2つを宣告された時点で、結末は投げるか投げられるかに限定された。そしてこの試合は、それでよかったのだと思っている。(だから、この試合を基準に「俺はここで『指導』は取らない」などという態度は根本から間違っているので注意されたい。史上1回しかない試合の基準を、標準化してはならない)

ここまで組まないことが許容されるのであれば阿部に有利ではないか、という意見に対して。それはその通りである。そして「ただ1試合に全てが委ねられる」というのはそういうことなのである。ただでさえ、力の劣るものが強者を倒すにあたり、何度も戦うのは得策ではない。ただ1試合に絞って知恵の限りを尽くすのが最善だ。だから、国際大会での勝ち味という点で絶対のアドバンテージがある強者・丸山にとっては、実はただ1試合の直接対決に全てが委ねられるこの展開を作ってしまったこと自体が既に戦略的に相当な痛手であった。ましてやオリンピック代表決定戦、「軽微な反則」で試合を決めるわけにはいかないこの空間は「弱者の兵法」が最大限に生きる土俵である。阿部はこのアドバンテージを十分呑み込んだ上で、故意のテクニカルファウルを含めてすべての手練手管を尽くした、そして来る大一番がこの空間で行われることは丸山の側も十分理解していたはずだ。ここでたとえば「あのファウルを採っていたら丸山の勝ちだった」と言い立てるのは、阿部以上に、何より丸山に対して失礼である。

少し話が逸れる。そうすると丸山にとっては、3連勝のあと体調不良のままグランドスラム大阪に強行出場したこと、そして参加者のレベル極めて低かったグランドスラム・デュッセルドルフ欠場という判断が失敗だった、という見立てが出てくるかもしれないが、これを責めるのは酷である。丸山はその時点で採り得る最善シナリオを採ったまで。後付けでの批判は意味をなさない。今回の結果から学べるのは、小さな判断や運の積み重ねが、最終的には大きな事象に結実するという事実だけだ。2019年東京世界選手権3位決定戦、マニュエル・ロンバルドの「一本」が取り消しにならなければ阿部の運命はそこで終わっていた(いまだに取り消しの理由は見いだせない)。2019年選抜体重別決勝、GS5分22秒の阿部の右小内刈「技有」が取り消されなければ、丸山にはそもそも阿部への挑戦権がなかった。きょうこの日の最終決戦も丸山と阿部にはそれぞれ勝機が生まれては消え、数限りない分岐点があった。そして、あの悪夢の3連敗からことごとくその小さな分岐を獲り続け、最終的に勝ちに至ったのが阿部だったということである。阿部はいわば選考期間一杯を使い切って、この日GS延長戦20分0秒の「技有」に辿り着いたのだ。勝者は、阿部だ。

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あるべき立場は「検分役」。この「特撰乱取」とでもいうべき特殊な試合に天野主審の能力と感性はうってつけだった。(写真は2019年全日本柔道選手権時)

天野主審は、試合の目的に適ったルールの運用を行ったと思う。現代競技の「ジャッジ」とうよりは、古来の武道における「立会人」とか「検分役」というべき自己規定と風格。そしてこの「検分役」という立場から「投げて決着しなさい」という忠告を投げ、勝負の一太刀を的確に見極めた振る舞い。これぞこの埒外の大一番にふさわしい裁きであり、審判のありようだったと思う。

率直に打ち明ければ。普段の天野さんは「国際ってのはこうやるのよ」とばかりに毅然と反則裁定を行う人である(これも誤解を招くのであまり言わなかったのだが、先日の講道館杯でも女性の審判員は的確毅然と反則を取る傾向があった。天野さんらトップレベルを基準点とする、そういう文化があるのだと思う)。なのでこの試合も投げで決まらない可能性があるのではとも少々心配していたのだが、天野さんはきちんとこの試合の目的と文脈、そしてあるべき「検分役」としての立場を理解して振る舞い、そしてこの大試合を完成させた。このあたりは腕利きの国際審判員であるとともに、「鍵屋」15代目宗家という日本の伝統を背負うものとしての感性あってのことであろう。適材適所であったと思う。大試合を捌き切ったその腕と度胸、そしてその感性に拍手を送りたい。

■ 阿部の今後に注目
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丸山に勝つという目的のため自己を手段化した阿部。この体験は次にどう生きるのか。
(写真提供:全日本柔道連盟)

長いこの「総評」も終わりに近づいて来た。短く、あと2トピック。

まずは恒例の「ひとり強化会議」。この半年間を「丸山に勝つ」という一時に捧げ、己を手段化してきた阿部。見事その宿願を果たしたわけだが、この試合から見て取れる技術的な積み上げは(この試合しか見ていないから当たり前だが)、あくまで対丸山カスタムのもの。精神的には一段も二段も階段を上がり、「本物になった」と評したいくらいであるが、一般性のある技術的な積み上げとしては、右出足払の上達があるくらい。組み手の切り離しは国際大会の場での汎用性という点では疑問が残るし、ひたすら際の訪れを待つ耐久戦法はそもそもIJFルールにはそぐわない。

期待されるのは「目的に向けて自分を手段化する」という経験値の積み上げと成功体験が、汎用性のある技術の開発に応用されること。おそらく2月以降、国際大会に出場するであろう阿部が、一段も二段も強くなった姿を、それも具体的な技術で見せてくれることに期待したい。

■ 最後にこれだけは言っておきたい
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力を出し尽くした「精力善用」の闘いはもちろん、互いを称え合う「自他共栄」の態度が柔道人の胸を打った。
(写真提供:全日本柔道連盟)

両雄が死力を尽くして戦った試合自体はもちろんだが、試合直後の阿部、丸山両選手のコメントがひときわ胸を打った。勝った阿部が「自分がここまで強くなったのは丸山選手がいたから」と相手を称え、敗れた丸山も「強くなれたのは、阿部選手の存在があってこそ」と語る。

ここに、今回柔道人がこの試合の特別ぶりを語るときに使う「聖地・講道館で」「講道館の大道場で」というフレーズ、そこに込められた熱量の理由があると思う。聖地・講道館、創始者嘉納治五郎師範の肖像が見守るという舞台装置のもとで、日本が生んだ世界王者2人が互いが持っているものを出し尽くす「精力善用」を実践し、互いに「相手の存在があってこそ、自分がある」と称え合う「自他共栄」の構えを示す。オリンピックの代表決定という枠組みを超えて、柔道人の琴線に触れる、訴えるもののあった試合と言えるだろう。間違いなくオリンピック本戦決勝を超えるレベルの戦いであったが、単にレベルの高い競技というだけではなく、講道館柔道のあるべき「構え」を示したという点からもこの試合は特筆されるべき。まさに唯一無二の大試合であった。

以上である。長稿に最後までお付き合いくださった読者の方々に感謝を申し述べて、この「総評」を閉じさせていただく。

※ eJudoメルマガ版12月14日掲載記事より転載・編集しています。

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