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【eJudo’s EYE】高校選手権縮小開催の声に一言、フェアに考えるなら残すべきは個人戦

(2020年11月30日)

※ eJudoメルマガ版11月30日掲載記事より転載・編集しています。
【eJudo’s EYE】高校選手権縮小開催の声に一言、フェアに考えるなら残すべきは個人戦
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2018年大会開会式(個人戦開始式)。誰にでもここに挑むチャンスがある、そのこと自体が大事だ。

文責:古田英毅
Text by Hideki Furuta

色々な情報が出回っている。もう皆さんの耳にも入っているかもしれない。濃淡異なる巷の声を集めたその共通項として浮き出てくるのは、来る3月の全国高等学校柔道選手権大会の開催規模が縮小されるということ。

社会全体が新型コロナウイルス「第三波」の猛威にさらされる現状、本当に数か月後に高校生の全国大会が開催出来るのかどうかがまずもって不透明。そんな中、規模縮小という話自体に驚きはない。誰もが想定の範囲内として受け止めるはずだ。問題は、どう縮小するか、だ。

少し考えてみる。参加校数(あるいは参加人数)自体を減らすためには新たにブロック予選を実施しなければならないから (ちなみにかつてこの大会は県1校代表制ではなくブロック予選で代表が選ばれていた)(もっか本戦と同じレギュレーションでのブロック大会を行っているのは東北・近畿など一部のみ)、これは現実的ではない。また、男子か女子どちらかをなくすというのもあり得ない。となると規模縮小イコール、団体戦または個人戦のいずれかを取りやめるということと考えるのが自然だ。

では団体戦、あるいは個人戦のどちらかのみ残すとして、どちらをどうするのが妥当だろうか。

弊サイトのマッチレポートやコラムを読んでくださる読者諸兄はご存じかもしれないが、筆者は団体戦が大好きである。この仕事の最大の楽しみは高校生の団体戦のレポートを書くことと言い切ってしまってもいいくらいだ。また、この大会がもともと団体戦の大会としてスタートして(テレビ朝日との共催で立ち上がった企画であった)人気を博し、徐々に規模を拡大して現在の形に辿り着いたという成り立ちと経緯も十分承知している。現在のこの大会の個人戦が、団体戦での活躍が難しい軽い階級にフォーカスしたものであることも理解している。

しかし、それでもなお、言わねばならない。もし大会規模を縮小してどちらか一方を廃すのであれば、残すべきは圧倒的に「個人戦」である。教育的見地がもっとも大事にされるべき高校生の大会であれば、そしてその中でやむなく何かを切り捨てて大事なものを残すのであれば、その大事なものとは「機会の均等」であるべきだからだ。どんなチームにいても、己がしっかり修行して強くさえなれれば檜舞台に辿り着き、道が繋がっていくという大原則を崩してはならない。そのチャンス自体を潰すことがあってはならない。

現在の高校柔道で団体戦の都道府県代表を狙えるのは、ほとんどが私学の強豪校。学校本体のバックアップを受けたスカウトでメンバーを集め、優れた指導者のもと恵まれた環境で集中強化を図る「専門チーム」のみだ。普通の学校では、どんなに才能ある選手が1人、2人いたとしても、彼ら専門職に伍するだけのメンバーはまず揃わない。

彼ら非専門職チームの選手たちは、全国大会には団体戦しかありません、と言われた瞬間間違いなく絶望する。「頑張って他のメンバーも強くすればいいじゃないか」などと声を掛けるのは、現実にまったく則さぬ、おそらく敢えて現状に目を瞑ったきれいごとの建前論だ。現代高校柔道の団体戦は、個の強さを云々する前に乗り越えなければいけない環境的格差があまりにも大きすぎる。高校柔道はもはや全国ほぼあまねく「(私学)強豪校」という一部の専門職と、「それ以外のまったく上を望めない普通の学校」に二極分解して(柔道競技人口の激減はここに大きな因がある)いるのだが、そんな中、実質的に強豪校の選手のみに出口を与え、たとえ環境整わぬ中でも己を鍛えて上を狙うという貴重な「個」のチャンスと将来を閉ざすのであれば到底納得がいかない。数の多寡ではなく、そういう人間を存在させてしまうこと自体が問題だ。公平さとは「強いものが檜舞台を踏む」ということであるべきで、誰にでもそこに挑む権利を担保すること、つまりは超強豪校の選手もそうでないチームの選手にもあまねく公平にチャンスを与えることに他ならない。その公平さがあるのは、間違いなく個人戦である。もし団体戦のみを行うというのであれば、これはもう「強豪校優遇」と断じてしまっていい。誰がなんと言おうと、高校柔道における環境的格差はもうそこまで行き切ってしまっているのだ。

危惧するのは、こういった決定を下す際におそらく議論を引っ張るであろう方々はこれまで柔道界を牽引して来たビッグネームであり、おそらくそのほとんどがいわゆる超強豪チームの出身であること。団体戦のみを行うということがいかなる「格差肯定」であるかという草の根の皮膚感覚が伝わりにくいのではないかということだ。指導者や強豪校の選手のみの意見と、全高校生の意見ではだいぶ違いが出てくるのではないか。いま一度、大事にすべきはなにか、機会均等(誰にでも等しくチャンスがある状態こそ、競技普及の一丁目一番地だ)とはいかにあるべきかを立ち止まって考えて欲しい。そう思って一声挙げさせていただく次第だ。

そもそも。先ほど書かせて頂いた通り高校柔道の二極分解があまりにも行き過ぎたことが柔道人口激減の因(最大の原因の1つである)のなのに、ここで敢えて団体戦のみを取るという行為は、「超強豪校」という1つの極を取り、「普通の学校でも上を目指す才能」というもう片側の極の有望株を切り捨てるという、二極分解の再肯定だ。こういう非常時にこそにじみ出てしまう本音がそれであれば、その考え方こそがこれまで柔道人口を減らしてきた価値観そのものだと声を大に叫びたい。全国レベルの一部超強豪チームがある県ほど、実は全体としての競技人口が減っているのはなぜなのか、胸に手を当てて考えて欲しい。この状況であらためて「強い学校の選手以外にはチャンスをあげないよ」というメッセージを出すことが、いかに恐ろしいことかに思い至ってほしい。コロナ禍で試合に出られない理不尽は不可抗力だが、団体戦しかやらずに個人で頑張っている選手の夢を踏みにじる理不尽は人為的所業だ。不可抗力の理不尽に、人が、己の意志でもう1つ故意の理不尽を押し付ける暴挙は看過しがたい。

これがコロナ禍1年目ならばともかく、既に2年目。昨年は全員等しく涙をのんだわけだが、その次の大会、この形が当面のスタンダードになるかもしれない大会が「団体戦だけ」では、極端に言えばこの先強豪校以外の柔道部をすべて潰しかねない。大事にすべきは一部の少数専門職の先鋭化なのか、草の根を支える柔道愛好者の増加なのか。そこまで問われる判断であることを、腹を据えて考えて欲しい。

ここまで言ったのでもう1つ。もし、万が一にも、どうしても団体戦のみの開催となってしまった場合(個人的にはあってはならないと思うが)は、恒例の主催者によるシード校選出は廃して、トーナメントは「ガチンコ抽選」で組み合わせるのが良いのではないだろうか。この大会は過去の実績に囚われ過ぎずその年の強いチームをシード校としてピックアップすることが売りだが、今回はその、今年の実力を見極める大規模招待試合もなければ、保険として参考にすべき昨年度大会もない。もしこれで、現在のチームにはもう関係のない「一昨年より前の実績」などを参考にしてシードチームを選ぶようなことがあれば、それは「各地の一部強豪校」にさらに掛け算で「過去強かった伝統ある学校」というフィルタを掛け算する、格差に格差を上塗りする行為である。今年を機に全国の勢力図をシャッフルする、そのくらいのつもりでやるのがいいのではないだろうか。これまた私事で恐縮だが、筆者は招待試合やブロック大会を渡り歩いて試合を見、団体戦のシード校を読むのが生きがいの1つである。大会のない今年もそれはそれで各地の情報通を取材してシード校を割り出すことを楽しみにしていたのであるが、それでもなお、もし団体戦をやるのならこのくらいのエクスキューズは必要だと思う。それほどまでに、「団体戦のみ」が浮き彫りにする高校柔道の格差構造は深刻だ。関係者においてはぜひ真摯にお考えいただき、ファンの方にはぜひ「機会均等」の気運を盛り上げて欲しいと思う。残すべきは明らかに、個人戦だ。

※ eJudoメルマガ版11月30日掲載記事より転載・編集しています。

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