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アン・チャンリン ロングインタビュー①「試合は『死合い』、木村政彦本を貪り読んだ中学時代」

(2020年9月3日)

※ eJudoメルマガ版9月3日掲載記事より転載・編集しています。
ロングインタビュー「世界王者アン・チャンリンの過去、現在、そしてこれから」(全3回)
第1回「試合は『死合い』、木村政彦本を貪り読んだ中学時代」
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日本育ちの韓国代表、2018年バクー世界選手権の覇者アン・チャンリン。

2018年バクー世界選手権73kg級金メダリスト、アン・チャンリン(安昌林・韓国)選手のロングインタビューをお届けする。
皆さんは、この春街に貼られたアン選手のポスターを既にご覧になっただろうか。彼が中学生のときに「柔道ノート」に綴った言葉が前面に押し出された、あの迫力のポスターだ。曰く「俺が負ければ家族が泣く」「試合は『死合い』」「負けは死を意味し勝つことは生を意味する」「オーバーワークは一流選手だけが使う言葉」、「センスがなければ三倍努力」、そして「何がなんでも東京五輪で金メダルを獲る」。中学生にしてこの激しさ。日本で在日韓国人3世として育ち、学生王者まで上り詰めるものの国籍上代表を争う権利がなく韓国に渡って世界の頂点を極めたというアン。その密度の濃い出自と波乱の経歴が存分に感じられる、張り詰め切った文字の塊が続く。こう言っては何だが、今の日本のシステムではこういうハングリータイプの選手はちょっと育てられない。少なくとも中学生がこの台詞を吐くことはないだろう。日本の風土で育ち、韓国で成功を手にした彼はいったい何を考え、どう行動して世界の頂点に立つに至ったのか。その言葉、存分に堪能して頂きたい。

インタビューはコロナ下におけるアン選手の活動、日韓の柔道の違い、彼の得意技である背負投について、そしてライバル大野将平選手について(過去6戦をすべて振り返って頂いた)と多岐長時間にわたったが、日ごろ日本のメディアで紹介されることが意外に少ない彼のことを知ってもらうため、まずは彼の来歴を紹介するところから始めたい。時系列に沿って、小・中学校時代を振り返るところから始めさせて頂く。

(聞き手・古田英毅)

※インタビューは7月下旬にオンラインで行われました

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話題となったポスター。アンが中学生時代に綴った言葉が前面に押し出されている。
(写真提供:AN CHANGRIM official supporters)

―――新大久保に貼ってあったポスター、見せて頂きました!SNSで紹介したところ凄い反響でした。それにしても、ちょっと今の日本の中学生からはなかなか出てこない、テンションの高い言葉。凄い覚悟で生きていたんですね。

恥ずかしいです(笑)。小学生のときからかなり本を読んでいたんですけど、中学生になって何十回と読んでいたのが木村政彦さんの「わが柔道」、そして石井慧さんの「石井魂」なんです。常に2冊同時並行で本を読んでいて、1冊は好きな小説、もう1冊はこのうちどちらかを繰り返し読んでいるというのが日常でした。骨に染みこむほど読みました。なので、お気づきかもしれませんが、あのポスターの言葉はかなり木村政彦先生に影響されているんです。木村政彦先生の本が好きすぎて授業中もこっそり読んでいて、先生に「何読んでるんだ!」と見つかったことがあるんですが、「これです」と出したら叱られず、逆に褒められたという思い出があります(笑)。

―――先生のほうも、隠れて木村政彦本を読んでいる生徒はちょっと怖かったんじゃないですかね。叱りにくかったと思います(笑)。「三倍努力」の木村政彦さんに石井慧さんと、いずれも「努力」を押し出す方ですね。

もちろん井上康生先生や鈴木桂治先生は尊敬しているんですが、自分が小さい頃から好きだった選手は石井慧さんや西山将士さん、そして吉永慎也さんとか、いぶし銀というか、玄人が好むような選手ばかりだったんです。で、その人たちの背景には努力が透けて見えやすい。努力をすればああなれるんだ、という思いや憧れがあったんですね。木村政彦先生についてはあまりにも好きすぎて、先生の弟子筋のかたが同じ関西にいるという噂を聞いて、大阪まで会いに行こうとしたくらいです。「柔道ノート」に書いたあの頃は木村先生の言葉を鵜呑みにしてまっすぐそのまま出しただけですけど、今は時がたって、うまく咀嚼して自分の中に取り込めていると思います。

―――しかし、いるんですね。そういう中学生が。…私、大会会場で小学生が声を揃えて「××選手、ファイットー!」とかやると「ああもう!子どもってのはみんな強いもの好きだよな!相手にだってドラマがあるんだよ!」とちょっと複雑な気分になるんですが、こういう中学生もいるんだなと、非常に痛快です(笑)

子どもの時から、バンバン投げる選手よりも、根性勝負で相手のことを妥協させて「指導」で勝つような選手が好きだったんですよ。

―――今もそういう子がきっといると思います。ぜひ今度はアン選手が本を書いてあげてください。

はい!(笑)

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もともとは空手を学んでいたアン。柔道はあくまで「空手のプラスになれば」という位置づけだった。
(写真提供:AN CHANGRIM official supporters)

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第1回全国小学生学年別大会に出場。
(写真提供:AN CHANGRIM official supporters)

―――ではあらためて、アン選手の経歴を追わせてください。柔道をはじめたきっかけは?

出身は京都府。家が空手道場をやっていたんです。父が指導者として教えていて、僕も当然のように空手を習っていました。空手にも投げがあるので、プラスになるのではないかということで柔道を始めたんですね。小学校1年生のときです。九条柔剣道愛好会というチームに入って、練習は週2回、1時間くらい。1時間といっても、道場を走り回って、大外刈の打ち込み100回やって終わり、とかそんな感じでした。

―――きっかけも内容も、あくまで教養としての柔道だったわけですね。

そうです。様子が変わったのが高学年になってから。警察署の道場なので3年おきくらいに先生が替わるんですが、4年生か5年生くらいにいらした土井敬一先生という方が非常に厳しくて、急にものすごい練習をすることになった。でも練習が激しくなった割に成績は出なかったんですよ。それで、僕はサッカーもやっていたので、この先はサッカーに専念したいと親に申し出たんです。小学5年生の時ですね。両親のほうも、柔道では成績出ないようだし将来にはつながらないみたいだから、もうやめてもいいんじゃない?とあっさり認めてくれた。他にもいろいろな習い事をしていましたので、他で頑張ればいいでしょうと。そういう話になって、この大会を最後に柔道を辞めると出場したのが、第1回の全国小学生学年別柔道大会の京都府予選。ここでまさかの優勝をしてしまった(笑)。これが大きなきっかけ。全国大会に出ることになったことで本格的に柔道に打ちこむようになりました。道場での練習のほかに、週2回くらい、先生に連れて行ってもらって、滋賀の大津柔道協会で練習させてもらうようになりました。そこには1学年上に既に有名だった遠藤宏美さんがいて、試合もさせてもらいましたが、いきなり背負投で投げられて5秒くらいで負けてしまった。筑波大に入って会ったときにそのときの話をしたんですけど、彼女は全然覚えていなかったですね。つまりは、そのくらいの選手だったということです(笑)。

―――柔道をここまで続けるイメージは持っていましたか?

まったくなかったですね。でも、6年生になると、将来は絶対韓国代表になってオリンピックに出たい、と小学生ながらに強く思うようになりました。

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3年時、全国中学校柔道大会個人戦に出場。
(写真提供:AN CHANGRIM official supporters)

―――朝鮮初級学校を出て、市立八条中学校に進学。中学時代の猛練習はつとに聞くところです。当時の稽古について教えてください。

父親に厳しいトレーニングを課されました。いま思っても人生あんなきつかったことはない。本当にきつかった。朝早いうちからでっかいタイヤを手で引いたり、坂道で自動車を押して100メートル動かすとか。泣きながらやっていたので、見ていた人から通報されて警察が来たくらいです(笑)。それだけでも十分きつかったんですけど、父が柔道整復師の勉強のために通っていた縁で、京都医健専門学校でコーチをしてもらえることになったんです。学校の練習のほかに週3回ここに通うことになった。縁を繋いでくれた正村和也コーチをはじめ、湊谷(知幹)先生や、大人の猛者たちががっちり稽古をつけてくれる。本当にありがたいことなんですが、まだ未熟だった自分にとってはここの稽古がもう、本当に地獄でした(笑)。強い大人がマンツーマンで僕だけを鍛えるという形だったし、「投げるまで終わらない」いつ終わるかわからない練習が日常。自分のメンタルの部分でのベースはここで養われたかなと思います。

―――全国中学校柔道大会に出て、桐蔭学園高への進学を決めました。この背景は?

もともとは、キム・リーマン(金琳煥、相原中→新田高→東海大→現在韓国代表。2019年東京世界選手権66kg級2位)の存在もあって、新田高校への進学を考えていました。コーチしてくださっていた正村さんが四国の方という縁もあってこれで決まりかなと思っていたのですが、湊谷先生が筑波大学で桐蔭学園の鈴木寛人先生の先輩後輩ということもあり、全国中学校大会で試合を見てもらうことが出来たんです。試合自体は早い段階で負けてしまったんですが、意外にも「入ってきてもいいよ」と声を掛けてくださいました。やるからには一番レベルの高い関東で勝負してみたい気持ちもありましたし、何より当時の桐蔭学園の軽量級は本当に強かったので、思い切って進学を決めました。

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インターハイに出場、この年の世界ジュニア王者竪山将と矛を交えた。
(写真提供:AN CHANGRIM official supporters)

―――桐蔭学園の環境はいかがでした?

僕にとっては最高でしたね。毎日、これまで「近代柔道」で名前を見ていたような強い先輩方と稽古が出来て本当に充実していました。本当に3年間練習しかしていませんでした。道場でも、寮の部屋でも、空いた時間を見つけたら練習とトレーニングをずっとやっていました。他のことをやった覚えがないくらいです。メンタルの基礎が中学で出来たとしたら、柔道の基礎は高校で作られたんじゃないかなと思います。チームのレベルは本当に高かった。自分は同級生でも下から数えたほうが早いくらいで、校内試合でもよく負けていました。同級生に丸山城志郎もいて、彼はスターで、僕は1年生のときは本当に弱い選手。ただ、常に最後まで残って練習していたのは僕と城志郎でしたね。桐蔭は全体の練習時間が短くて、2時間くらい。朝はやっても1時間くらい。そのかわりやりたい生徒はその後に自主練でがっちりやり込む。高校1年生のときから最後まで残って、桐蔭横浜大で大学生に混ざって練習したりしていました。

―――同級生や先輩後輩から、「チャンリンの練習量は異常だった」という証言がたくさん集まっていますよ。夜中自室でウエイトをする音がうるさくて、夜中の自主練禁止のルールが出来たとか、その他もろもろ。

本当にもうやりたいようにやっていたので、同期にも先輩後輩にも非常に迷惑を掛けたと思っています(笑)。試合で負けると、そのまま後輩を連れて道場に戻って投げ込みをやったりして。いわゆる「罰走」も自主的にやりました。先生はそういうことは一切させないんですが、僕が同期を巻き込んで「走るぞ」と、会場から寮まで一緒に走らせていましたね(笑)。

―――筑波大進学を決めた経緯を教えてください。

実は高校に入った時から、国士舘大学に進むつもりだったんです。小さい頃から憧れていた石井慧さんや西山将士さんがいた大学ですし、自分がまだ成績を残していなかったころから、当時監督をされていた山内直人先生が声を掛けてくださっていたんです。お前は一番練習するから、絶対国士舘に入った方がいいよと。本当にありがたいことで、僕もそうするつもりでした。だけど高校3年生になって、国籍の問題があって色々な試合に出られないという問題に直面するようになった。それで、いざ大学を選ぶとなったときに、高校生の今でさえ出られる試合が少ないのに、国士舘のような大所帯に行って、東京学生に出られる何枠かを掛けて部内で戦って、結果として1年間まったく試合に出られないということもザラにあるなと思ったんです。それで、強くて少人数、少数精鋭で自分を鍛えられて、かつ1年生から学生の試合に出られる可能性が高い環境と考えた結果、筑波大学が一番という結論に至りました。現実的な選択をしたと思っています。

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筑波大に進学。少数精鋭という環境にこだわっての決断だった。

―――ここからは筑波大入学、韓国渡航と、節目のたびに強さにブーストが掛かっていった印象でした。

筑波大に入っても、1年生のときはもう練習ばっかりしていました。1日も休まずに練習とトレーニング。

―――「ミスターストイック」と呼ばれていたとお聞きしました。

同級生が本当に強かったんですよ。永瀬、長倉(友樹)、小林悠輔。1年生から有望と期待されていて、のちに初めて国立大で全日本学生優勝大会で優勝することになる代です。彼らに比べて自分は成績も残せていないし、体も壊すし、嫉妬みたいなものを感じていました。みんな強いのに俺だけ出来ないと。でもその時に、悠輔や永瀬が、お前は練習やり過ぎだよ、たまには肩の力を抜いたほうがいいよ、とアドバイスしてくれたり食事に誘ってくれたりして、良い感じに肩の荷が下りた状態になったのが大学2年生。そこから階級も73kg級に上げてガ―っといけましたね。

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全日本学生体重別選手権73kg級に優勝。写真は決勝、GS延長戦で橋本壮市から背負投「技有」。

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インタビューでは「投げたことよりも『指導』を12個取れたことが良かった」と非常にアンらしいコメントを残した。

―――2年生時、2013年9月に全日本学生柔道体重別選手権というビッグタイトルを獲ります。これまで厳しい稽古で溜めてきたものが、解き放たれて結果に繋がったと。

はい。そういう時期だったと思います。

―――一方、外国籍として出場出来る大会はこれが最高到達点。日本籍であれば出場権のあった講道館杯にはエントリーできませんでした。

講道館杯は、観客席で観ていました。筑波大の増地(克之)監督からは日本国籍の取得を提案して頂きましたが、親と家族が苦労して大事にしてきた、時には命をかけて守って来た「在日」という立場を、僕がやりたいというだけで簡単に変えられない。日本から韓国代表を狙うことも模索しましたが、考えた末に韓国に渡ることを決意しました。

―――翌2014年の2月に、韓国に渡って龍仁大に編入。在日三世というアイデンティティに強い思いがあるものと推察しますが、そのあたりについてお話頂けますか。

在日韓国人として育って来ていて、もちろん子どものときから在日としての誇りは持ってきていたんですけど、それが一気に強くなったのは韓国に渡ってからです。日本でそうであった以上に在日韓国人として見られるようになって、「在日韓国人って何だろう」という疑問を深く考えざるを得なかった。この問いを自分の中で咀嚼して、納得できる形で理解出来るようになったのは間違いなく韓国に渡ってからです。…僕としては「こんなに悲しかった歴史があるんだからみんなわかってくれ」というのではなくて、柔道選手アン・チャンリンを知ってもらうことによって、在日のことを少しでもみんなが理解してくれるような状況があればいいなと思っています。これも選手としての自分の使命だと勝手に思っています。

―――日本を出ることで、アイデンティティを掘り下げられた。

そうですね。韓国で報道されるときは「在日の柔道選手」として報じられて、「なぜ?普通に韓国代表なのに?」とも思いました。先ほど、メンタル的な部分は中学で出来上がったものがベースとお話しましたが、本当のなにくそ根性、負けん気、ハングリー精神は小学校の、朝鮮学校に通った経験で培われたと思っています。それが韓国に行って、在日であることを深く考えて捉え直す行為に役立った。在日である、ということをより考えて、誇りを持てるようになったことに繋がっていると思います。

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渡航後は韓国代表のエースとして活躍。

―――韓国に渡って、生活文化や人間関係など、文化の違いに戸惑ったというようなことはありますか?

日本と韓国は隣の国ですし似たようなところもあると思うんですが、僕からすると、本当にまったく違う国。文化から何から全然違う。最初は柔道以外の面でも、苦労というか、理解出来ない部分が多かったです。いまは「理解はするけど合わせるわけではない」という自分なりの解決が見いだせています。理解はするけど、その上で自分のスタイルは貫き通す。自分の哲学を持って、自分のやりたいことはきちんとやって生活しようと思っています。もちろん韓国の文化は尊重しますけれど、自分の哲学、ポリシーをはみ出さない範囲でやる、その線を引けるようになりましたね。でもやはり最初は全然違うなと、衝撃的でした。

―――端的に、どんなところですか?

上下関係に関するものが多いですね。上下関係、礼儀作法。儒教のもと、そういう場面で違和感を感じることが多いです。徴兵制度があることもあり、色々な部分が軍隊式だったりもします。誤解して欲しくないんですが、決してそれが悪いということではなく、違いをきちんと意識するということです。その違いを理解した上で、自分を持って生活するようにしています。

―――日韓の柔道に関する考え方の違いを、アン戦選手の言葉で言うと?

日本の選手は二本持って投げることに美学を感じていますし、この部分に強いこだわりを持っていますけど、韓国は海外の他の国と同じで、投げれたらそれでいいし勝てればいいという感じ。特に「勝つ」ということに関しては非常に貪欲ですね。厳しい練習によってそのハングリー精神を培っている。軍隊の影響も非常に大きいと思います。

―――渡航後、ゴリゴリ強くなっていく様に驚かされました。理由を自己分析すると?

まずは24時間コーチが横について自分のことを分析してくれて、研究を一緒にしてくれて、強くなる方法を一緒に探してくれたことが大きかった。ソン・デナム(宋大南)コーチの存在は非常に大きかったですね。24時間コーチが付きっ切りという経験は人生で初めてでしたし、こういう体制は日本でもないと思います。365日一緒に練習して、一緒に生活する。家族よりも深い時間を過ごしたと思います。そしてやっぱり根本的なものとして、韓国の柔道が自分に合っていたということがあると思います。スタミナの柔道、パワーの柔道、担ぎ技の柔道。自分の体の中にもともとあるものと韓国のスタイルが噛み合ったということは強く感じています。あとは、厳しい練習とトレーニング。いまやっているのは科学的な根拠のある、きちんとスケジュールされたトレーニングですが、その時やっていたのは、とりあえずとにかくやる、昔ながらの信じられない量の、きついトレーニング。いま科学的には否定されていることかもしれないですけど、ある程度実力を上げるには必要な時期だったと思っています。

―――その頃、「近代柔道」誌の木村秀和さんから、「『なんでそんなに強くなったの?』とアン選手に聞いたら『トレーニングがめちゃくちゃきつい。まったく違う』と答えていたよ」とお聞きしたことがあります。

具体的に、毎日吐くくらいの量をこなしていましたから。朝、目を覚ますということ自体が憂鬱になるくらいでした。走る、ウエイト、柔道。これだけやって強くならなかったら本当に割に合わないなというくらいやっていました。…とにかくメンタル的にも肉体的にも本当にきつかった。リオの後はトレーニングから食事から体調管理からやり方を一切変えたんですが、信頼できるコーチについて、限界を超えるくらいまで練習をやり込んだあの時期も、自分にとって大事なものだったと思っています。

<<続く>>
次回は9月6日に配信予定。第2回は、アン選手の柔道のポリシーと韓国渡航後のこれまで、第3回では大野将平選手との6戦の振り返りを中心にこれからのビジョンをお話頂きます。

※ eJudoメルマガ版9月3日掲載記事より転載・編集しています。

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