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【eJudo’s EYE】もう一度言う、再選考はありえない

(2020年4月4日)

※ eJudoメルマガ版4月4日掲載記事より転載・編集しています。
【eJudo’s EYE】もう一度言う、再選考はありえない
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日本武道館の地に、来年再び世界から代表が集う。
(写真は2019年世界選手権時)

文責:古田英毅
Text by Hideki Furuta

五輪延期決定の翌日、代表内定者の権利は維持されるべきだとの旨をコラムで書かせて頂いたが。その後の報道などを見るにつけ、思うところがあり再度同じ趣旨で書かせて頂く。社会、そして柔道を取り巻く状況はもはや五輪代表再選考の有無がトップトピックではなくなってしまっているのではないかと思われる惨状だが、空気を読まぬ発信をお許し頂きたい。

あらためて。1年延期であれば代表の再選考はありえない。内定者13名の代表権は守られるべきだ。競技団体としてとるべき立場からも、社会的な状況からも、実務的にも、この一線を守ることが唯一最善の道であると考える。多様な意見と議論はあって然るべきだが、結論は理性的であるべきだ。「金メダルの可能性を1パーセントでも上げるために」とか「その時点で一番強い選手を選ぶべき」だから再選考が必要という人がいるとすれば、これまでの代表選考の来歴(過去)と、何より今の社会状況(現在)が見えていない。苦悩自体は理解するが、現実と接点のないこれぞ空理空論であると断じたい。

前回のコラムと重複する部分もあるが、以下書かせて頂く。

まずこれは前回書かせて頂いたが、この先公平に代表を選考し得る国際大会がないこと。日本代表が五輪で勝つために採って来た選考ポリシーは「世界選手権の重視」、つまり全員がフォーカスしてくる大舞台で海外勢に勝ち得るポテンシャルがあるかどうか。これをあらためて覆すだけの舞台はもはや物理的に設定できない。仮に極めて楽観的に(もはやありえないと思うが)、秋から国際大会が再開されると仮定したとして、1度や2度の大会で見極められることなど何もない。全員が試合勘を喪失しており、やってくる選手の立場やモチベーションもバラバラ。そんな綻びだらけの非常時大会で「大舞台における対海外選手の適性」を測定することなど不可能だ。

さらにこの先の大会スケジュールはすべて覆される可能性があり、これに依拠する限り強化の計画も都度変更を迫られることを指摘したい。IJFは当初3月の大会を中止し、続いてこの措置の4月末までの延長をアナウンスし、さらにビゼール会長のメッセージという少々特異な形で突如6月末までの大会中止を表明して、なおかつTV会議では8月末までの全中止を協議しているという。まさに泥縄、混乱の極みである。ビゼール会長自身が「この措置は延長される可能性がある(いつまで続くかわからない)」「世界の保険状況に関する公式のガイドラインが発せられてから以後のスケジュールを決める」と発言しており、つまり五輪までの国際大会開催日程は実質すべて未定であると言っていい。そして仮にこの先何らかのスケジュールが決められたとして、世界の感染状況を冷静に考えればこれはまたもやことごとく覆される可能性が極めて高い。ウイルスとの戦いは間違いなく数年スパンだ。この中でそれでもあくまで再選考をするべきという人々は、いったい何を基準に選考計画を立てろと言っているのか。彼らの主張に「感染状況が落ち着いたら」という条件節があるとすれば、それはいったいいかなる機関の、どんなステートメントに基づくのか。社会のいかなるコンセンサスを前提条件とするのか。すべての日程が白紙である以上選考計画は立てようがないし、強化計画でいえばいま唯一の「決まっていること」、つまり2021年7月に戦うことに向けて代表選手が粛々己を鍛錬してもらうこと以外に道はないはずなのだ。

2つ目の理由は、再選考計画を立てることで柔道が社会的信用を失うこと、ジャンル自体のイメージが大きく毀損されること。ではこれから再選考を行うとして、たとえば秋に国際大会が行われるのでこれに参加します、さらに冬にIJFが前倒しをアナウンスした(脳内の仮定であるので誤解なきよう)世界選手権に選手を派遣して選びますと決めたところが、これが次々中止され、そのたび都度選考計画の変更を発表する事態になるとすれば一体これはどう捉えられるのか。代表選考という重事を二転三転させ、ファンと選手を振り回すようなジャンルを社会は絶対に信頼しない。この8年間の努力はまさに水泡に帰する。これまで営々積み上げてきたものを、あたかもロンドン以前の闇が続いているかのように語られてしまうことは到底納得がいかない。

社会的信頼という観点からもう1つ。既に国際陸上競技連盟が五輪出場決定者の資格保持方針を打ち出している。世界最大規模の、それも「記録」という極めて客観性の高い基準を持つジャンルのIFがいち早くこれを表明したインパクトは大きい。再測定の比較的容易な陸上競技で、それも「記録」という客観性の極めて高い基準で上回るものがその後現れたとしても代表権が維持されると宣言し、それが大枠社会の理解を得られているわけである。比ぶるに、再検証の機会創出が極めて難しい(世界各地からトップ選手を一定以上のコンディションで集めねばならない)柔道競技で、しかも海外選手への適性という曖昧(「記録」に比べれば差は歴然である)な基準を以て、選手が既に得ている五輪代表という大きな権利を奪うほどの説得力あるエビデンスが得られるものか。到底社会の理解が得られないと思う。

また、こういった混乱と引き換えに仮に「勝利の可能性の積み上げ」なるものが得られるとして、これは巨視的に見れば誤差の範囲に過ぎないと考える。代表内定者が極端に弱いのであればともかく、現代表の競技力は十分に高い。強化はこれまで積み上げてきた選考プロセスの確かさを信じるべきだし、再選考で失う社会的信用と選手からの信頼の失墜を考えれば「勝利の可能性の積み上げ」なるものの収支はむしろマイナス側に振れると考える。針の先ほどの「誤差」(選手当人にとって大問題であることは重々承知だが)のために社会と選手の信頼を失う行動は、勝利という観点から見ても合理的ではない。現代表の最大の長所である求心力と一体感を失ってまで、そんなことをする必要が果たしてあるのか。

3つめ。再選考が立脚する論理がこれまでのポリシーと相反することを指摘したい。もしもこれまでの選考が瞬間的なジャンプ力にフォーカスしたもの、つまり「たとえ実績が皆無でも、五輪までの1ヶ月で瞬間的に上がる選手を見極めること」に特化していたものであったなら、私は再選考にも理があると思う。五輪エントリー締め切りのギリギリで当人同士の三番勝負でもなんでもやればいい。しかし今までの理屈はむしろ真逆。世界で勝てる力を相応の場で、それもコンスタントに発揮して自己の力を証明してきた選手のみが選ばれるシステムだ。すべてのスケジュールが未定の中、極めて短い期間で選考をやり直すとしてもし何か見極められるものがあるとしたらそれは「本番ギリギリのジャンプ力」しかないわけだが、現代表の選考のプライオリティはここにはない。再選考はまさに自己矛盾だ。

最後に。やや情緒的になるが、一言付け加えさせて頂く。再選考派は「最強」という物語の呪縛にとらわれ過ぎて状況が読めなくなっているのではないか。これまで背負ってきた十字架の重さは重々理解するが、世界と日本社会が求めている物語の力点はいまやそこにはない。「柔道競技は金メダルを宿命づけられている」「1パーセントでも勝利の可能性を上げるために最後まで代表を選び抜く」という再選考派を捉えて離さぬ過去の物語は既に時代のニーズとずれてしまっている。ただでさえ社会におけるフェアネスや論理的整合性の優先順位が上がっているところに、この全世界的なウイルス禍。特効薬のない病が蔓延するパンデミックの状況下、学校は閉鎖され、行動は封じられ、経済活動は縮小し、人と人とが「集まる」ことすらが危険行動。先行きの見えぬ暗い社会状況で人々が求めるものは、さらに先行きの見えぬ泥沼の代表選考ではない。いま思いを託せる確かな「我々の代表」という存在なのではないだろうか。

さきほど書いた通り、そもそも現代表は十分に強い。「最強」の神話を満たすだけの厳しいプロセスを経て選び抜かれた精鋭揃いだ。不安を抱えている人々に、先行きの見えない不安をさらに上塗りするのではなく、自分たちの代表として彼らに感情移入してもらい、来年大会が終わってからではなく、いま、柔道が、社会に勇気を与えるべきなのではないだろうか。

最後は情緒的になってしまったが、これは筆者の思いからの付け足し。ご容赦願いたい。本稿の論理的骨組みはあくまで、①本番までに公平な再選考を行う機会自体が担保されない ②再選考を行うことで失うもの(社会と選手からの信頼)が大きすぎる ③行える可能性のある再選考の機会(ギリギリでの直接対決等)は現代表の選考ポリシーにまったくそぐわない、であること、そして情緒的な主張が④社会が求めている物語の力点はかつてと変化している、ということを確認して了としたい。

再選考は行われるべきではない。現在内定している選手の代表権はすべからく維持されるべきだ。

※ eJudoメルマガ版4月4日掲載記事より転載・編集しています。

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