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【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第77回

(2019年5月13日)

※ eJudoメルマガ版5月13日掲載記事より転載・編集しています。
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第77回
親しんで抱きつくようにして押さえつけるということは、多くの他のことにも応用されることと信じる。
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嘉納治五郎師範

資料提供 公益財団法人講道館
copyright:Kodokan Judo Institute

※写真の無断転載および転用を厳に禁じます

出典:「柔道家としての嘉納治五郎」 第4回
作興6巻5号 昭和2年5月 (『嘉納治五郎大系』10巻31頁)
        
武道あるいは流派の創始には、いくつかの条件があると思われますが、その1つとして「実力」があげられるでしょう。柳生新陰流の柳生石舟斎、柳生宗矩。二天一流の宮本武蔵。近代武道では、合気道の植芝盛平翁が神懸かった強さをしめす逸話を残しています。

それでは、嘉納治五郎師範はどれくらい強かったのでしょうか?
今のように一定のルールのもと、大衆の前で試合、その記録が残る時代であれば、ひとつの基準になるのですが、師範はそんなものがなかった頃の(むしろ、そういったものをプロデュースした)人ですから、そういった物差しでは計れません。
コンデ・コマこと前田光世氏の語る師範の「浮腰」、外遊の帰国時に、大柄なロシア人を投げた等々、記述されたものから、口述での話まで、その実力を窺わせるようなエピソードはいくつかあるものの、本人が試合をしたことは、柔術修行時代以外はないようです。有名な揚心流戸塚派を中心とする柔術諸流との対決も同様です(※)。

そんな師範ですが、日常生活でいわゆるストリートファイトのようなトラブルに巻き込まれたエピソードをいくつか書き残しています。ひとつ間違うと単なる腕自慢になりそうな話ですが、どうも、そうではないようです。
 
師範が講道館を創始したころは、まだ、明治維新を成しとげた英雄たちが数多く残っていましたが、そんな大物たちが畏敬の念をもって接していた白井小介という人がいました。ご縁があり、明治のスーパーエリートとは言え、まだまだ若造だった師範のところに、この人物が寄宿していたことがあったようです。
この白井翁、明治の元勲ですら、一目置く程の人物ですから、普段は非常に立派な方だったようです。ところが、どうも酒癖が悪い。酔った時の素行は酷いものだったようです。寄宿先の師範宅でも、酔うと書生に打ちかかり、時に、それは師範にも及びました。

そんな酔っ払いの横暴に、師範はどう対応したのか。
<尊敬の念は欠かないが、不正は一歩も許さない>という精神で、機敏にかわすと、親しく抱きつくようにして押さえて動かさないようにしたそうです。
白井翁も最初は抵抗したようですが、酔って打ちかかるたびに、同じ対応をされ続けた結果、「嘉納はえらい」と打ちかからなくなったばかりか、話を聞くようになったとのことです。

師範であれば、投げたり、極めたりすることも出来たかも知れません。ですが、あえて、それをせず、親しみをもって抱きつくように押さえることにより、平和的にトラブルを解決するだけではなく、さらに良好な関係を築いたわけです。

そして、この経験が他のことにも応用が出来ると信じる、というのが今回の「ひとこと」です。

相手の力に対して、力で対抗せず、だからといって退くこともなく、円満に解決する。まさに、「講道館柔道」の在り方の1つを示すエピソードではないでしょうか。


※両流派の指導者同士で勝負しろというような話も出たことがあるようですが互いに回避したそうです。

著者:元 敏季(ハジメ・トシキ)
1975年生まれ。柔道は中学校から始め、大学までは競技を中心に行うが、卒業論文を機に柔道の文化的側面に関心を持ち、大学院へ進学。凡そ10年、大学院・研究機関に所属するも、研究とは異なる分野の仕事に就き現在に至る。ライフワークとして嘉納治五郎に関する史料を蒐集・研究し、その成果を柔道振興のため発信しようとしている。

※ eJudoメルマガ版5月13日掲載記事より転載・編集しています。

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