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【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第66回

(2018年12月2日)

※ eJudoメルマガ版12月3日掲載記事より転載・編集しています。
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第66回
名誉というものは、本来、善事をなしてその結果として得られるものである。
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嘉納治五郎師範
資料提供 公益財団法人講道館
copyright:Kodokan Judo Institute

※写真の無断転載および転用を厳に禁じます

出典:「なにゆえに国家も個人も思うように進歩しないのであるか」
作興6巻1号 昭和2年11月 (『嘉納治五郎大系』6巻397頁)
 
人が何か目的を持ち、それを達成しようとするとき、そのモチベーションは一体何でしょうか?人それぞれでしょうが、その中の一つに<名誉>や<名声>といったものを(口にはしなくても)挙げる人は決して少なくないでしょう。

「名誉」は、本来なら「善事」つまり<良いこと>をして、その結果として得られるものであると師範は述べます。「本来」とわざわざ言うということは、「本来」以外のパターンがあると言うことです。つまり、何らかの理由で、実力や功績以上に、名誉や名声を得てしまうということ。こういった場合の名は尊ぶべきではないと師範は言います。それどころか「恥ずべきである」「(名ばかりあがった後、実績を残さずに死んだら)借金を残したの同様」とさんざんな評価です。

紹介した「ひとこと」は昭和2年のものですが、実は同じ趣旨のことは、たびたび述べられています。その中の一つに、大正5年に師範の私塾である嘉納塾で行われた講話があります。そこでは、世間の教訓の中には、意味を取り違えることにより間違った結果になるものがあるとし、その事例として「名を残す」ことを挙げています。

「名を後世に残す」と言っても、良いことをした、その結果として名が上がるのが本来であるのを、意味を取り違えた結果、その業績以上に有名になっている人がいる。師範はそう述べると同時に、そういった人は世間の人を誤らせていると批判します。
一方で、人のため、世のために尽くしていても、目立たない人がいることから、名が高くならないから、その人に価値がないと言うわけではないと「名」が全てではないとしています。

2016年12月に、ロシアのプーチン大統領が講道館を訪れた際、嘉納師範直筆の「行善不以為名而名従之」という書が贈られたと報道されました。これは列子(れっし)という古代中国で著された書物に出てくる言葉のようですが、「善を行うはもって名のためせずして、名これに従う」。意味は<良い行いは、名声のためにするのではない、(名声とは)良い行いの結果として、後からついてくるものなのである>と言ったところでしょうか。名声はあくまでも目的ではなく、結果であり、それよりも良い行いをすることの方が大事だということでしょう。

とは言っても、筆者自身は名声を目的に努力することは、決して悪いことだとは思いません。それがモチベーションになり、より良いことを成し遂げられることも十分にあると思うからです。
恐らく、師範も分かっていたと思います。ただ、名声ほしさに、自分の行いが本来目指すべき「善」から外れている人々が多くいるため極端なことを言ったのではないかと考えることも出来ます。

本末転倒にならないためにも「善」のためか、それとも自身の名声のためだけの行動か、常に省みたいものです。
 

※読みやすさを考慮して引用は『嘉納治五郎大系』から行っています。

著者:元 敏季(ハジメ・トシキ)
1975年生まれ。柔道は中学校から始め、大学までは競技を中心に行うが、卒業論文を機に柔道の文化的側面に関心を持ち、大学院へ進学。凡そ10年、大学院・研究機関に所属するも、研究とは異なる分野の仕事に就き現在に至る。ライフワークとして嘉納治五郎に関する史料を蒐集・研究し、その成果を柔道振興のため発信しようとしている。

※ eJudoメルマガ版12月3日掲載記事より転載・編集しています。

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