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【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第25回

(2017年3月6日)

※ eJudoメルマガ版3月6日掲載記事より転載・編集しています。
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第25回
幾千年の後まで人間の上に偉大なる力を及し得るものは何であろうか。
それは教育の事業である。
出典:「自伝の中に織り込んだ柔道と師範教育の神髄」
教育3巻10号 昭和10年(1935)10月(『嘉納治五郎大系』10巻,357頁)
 
読者の皆さんのほとんどは、現在、何らかの仕事をされていると思いますが、どのような理由から、今の仕事を選んだでしょうか。きっと様々なエピソードやドラマがあることでしょう。

さて、講道館柔道の創始者、嘉納治五郎師範。
師範の職業は何と言えば良いでしょうか?柔道家??
職業が労働をもとに対価を得るものであるとすれば、師範は柔道家とは言えないかもしれません。なぜなら、師範は柔道を金銭を得る手段と考えていなかったからです。そのためか、師範存命中の講道館は慢性的な赤字だったようです。
講道館だけの事業ではないでしょうが、結果として借金に苦しんだこともあったと伝えられています。第23回に出てきました訓育指南役・宗像逸郎先生が保証人となったところ、決済出来ず、差し押さえが来たこともあるそうです(※1)。これは講道館発行の『嘉納治五郎』にも記されているエピソードなので、本家公認の話といったところでしょう。

師範の柔道以外の活動は、多岐に亘り、主たるものでも、東京高等師範学校校長、貴族院議員、アジア初の国際オリンピック委員などが挙げられますが、細かいものも含めると膨大な量となります。ただ、後年、回顧録を残したとき師範が自らを規定したのは「柔道家」であり、「教育家」でした。

出来たばかりの東京大学二期生だった嘉納師範は、ずば抜けたエリートでした。その人脈も大変豊かなものだったようです。政界でも経済界でも外交界でも、好きな道を選べる立場にいたことでしょう。大学卒業後、師範は、学習院に教員として勤めましたが、教育にそこまで高い関心があったわけではなく、将来は政治家になりたいと考えていたようです。また、宗教家になることも、検討していたようです。
師範は、この二つの職業の共通点を「世に貢献する」こととしています。学生時代、天文学が好きで、その方面の研究者になることを考えたこともある師範ですが、「世に貢献する」ものではないと考え、早い段階で、選択肢から消したようです。
「世に貢献する」ことが、師範にとって身の振り方を考える上で重要だったことがよく分かります。

そんな師範が、学習院在職中、おおよそ2年かけたヨーロッパ外遊に出発したのは、明治22年。29歳のときでした。
はじめての異国。そこで、師範が見聞きしたものは、人々への影響が過去のものとなった宗教と、一度権力の座を降りた途端影響力を失い、その業績に永続性がない政治家でした(師範はビスマルクの失脚や、ナポレオンに対する人々の評価を聞いてそのように考えたとのことです)。

ヨーロッパの現状の観察と自らの将来を再考した結果、師範がたどりついた「世に貢献」し、後世まで、その影響が継続する事業。それが「教育」だったわけです。
今回の出典は、晩年の回顧からになりますが、若かりし師範がその感性と知性、そして志で、生涯の仕事として選んだ「教育」。その「教育」という事業に対する師範の誇らしさがうかがえるような「ひとこと」ではありませんか。


※1 慌てて、師範のところに駆け付けた宗像先生ですが、家具等が運び出されガランとした嘉納邸で、一言「何とかなるわい」と師範に言われたそうです。
※読みやすさを考慮して引用は『嘉納治五郎大系』から行っています。

著者:元 敏季(ハジメ・トシキ)
1975年生まれ。柔道は中学校から始め、大学までは競技を中心に行うが、卒業論文を機に柔道の文化的側面に関心を持ち、大学院へ進学。凡そ10年、大学院・研究機関に所属するも、研究とは異なる分野の仕事に就き現在に至る。ライフワークとして嘉納治五郎に関する史料を蒐集・研究し、その成果を柔道振興のため発信しようとしている。

※ eJudoメルマガ版3月6日掲載記事より転載・編集しています。

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