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【eJudo’s EYE】ルールウォッチ続報・グランプリ・デュッセルドルフでの反則宣告加速や「ブリッジ反則負け」の今後について考える

(2017年3月4日)

※ eJudoメルマガ版3月4日掲載記事より転載・編集しています。
【eJudo’s EYE】ルールウォッチ続報・グランプリ・デュッセルドルフでの反則宣告加速や「ブリッジ反則負け」の今後について考える
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前回のコラム「グランドスラム・パリで見えた『観戦視点』からの新ルール所見」に引き続き、2月24日から26日まで行われたグランプリ・デュッセルドルフ大会で見えた新ルール運用の様相、またそれが試合に与えた影響について観察を書きたい。新ルールそれ自体の評価というところでは前回かなり字数を割いたので今回はなるべく手短に、パリ大会と比べて感じた変化を中心に書きたい。好ルールゆえ問題点はかえってわかりやすく、世界選手権後のルール再改訂に向けて議論の最前線がどこかいよいよハッキリして来たという印象だ。

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消極的試合が一転、アグレッシブな投げ合いとなった90kg級決勝

大前提として-「エキサイティングな試合の創出」は機能継続-

ルールの一大ポリシーであり、正方向の作用である「互いが投げを志向するエキサイティングな試合の創出」は大枠その機能を継続させていると見る。端的な試合としてはレポートでも紹介した90kg級の決勝、ハサン・ハルモルザエフ対ヴェカ・グヴィニアシヴィリ戦を挙げておきたい。互いが相手を警戒して前半は組み手争いに終始、「指導」を失い合う消極的展開であった。しかし「指導」2つを失って後がなくなったグヴィニアシヴィリが残り1分から防御をかなぐり捨てて攻めに出て試合は急加速、一方ハルモルザエフもこれを投げようとすることで迎え撃って様相はノーガードの殴り合いとなった。

旧ルールであればこの流れにおけるビハインドサイドはまず1つの「指導」を得てタイスコアを作りあとは最悪GS延長戦に勝負を持ち越せば良しと、まず「山場の時間帯」を作って勝負を仕切り直すのが常套手段。しかしグヴィニアシヴィリが取った行動はまったく違ったわけだ。万が一にもあと1つの「指導」を失うわけにいかない崖っぷちの状況、このまま延長戦に持ち込まれて強敵ハルモルザエフ相手に「指導」2つを連続奪取せねばならない状況に陥ったときの現実的な勝ち味の薄さ、さらに結局投げねばならぬ延長戦で「指導」1つで良しと割り切ったハルモルザエフを消耗した体で投げねばならないミッションの難しさ、と考えればこの「投げて仕留めに行く」ラッシュは戦術上理にかなっている。グヴィニアシヴィリの戦闘的性格はもちろんだが、このバックグランドが行動の背景となったとの分析は十分許されるだろう。彼の肚を括ったラッシュは、意識的にせよ無意識的にせよ、ルールがプロデュースしたものだ。

一方のハルモルザエフが旧ルールの定石通りに「指導」1つのリードのまま試合を塩漬けず、真っ向迎え撃って投げ合いを志向したことも「結局投げねば勝ちがない」新ルールが背中を押したと捉えたい。こちらはこちらで、疲弊仕切ったサドンデスの延長戦よりも、体力が残っているうちに投げてしまったほうが勝ち目があると踏んだわけである。

と「投げねば勝てない」新ルールに2人が最後に導かれた地平は、残り20秒にスタートした「奥襟とクロスを叩き合いながら相四つの両者が引き手側に回る」待ったなしのグルグル行動であり、互いの大技が同時に噛み合うという最後の攻防であり、この際より崩し効果の大きい後ろ回り捌きの技を選択したグヴィニアシヴィリの側が豪快な体落一発を決めるというダイナミック極まりない決着であった。後述する通りつまらない試合も散見され始めた新ルールであるが、大枠、平均としては「投げて、決める」新ルールはエキサイティングな試合の創出に貢献していると言って良いだろう。無名選手エドワード・トリッペルがその線の細さにも関わらず「投げる能力」を駆使して、西山大希に2度投げられながら3度投げ返して勝利した試合などは、圧巻であった。


「指導」が加速、背景には「攻撃意思の見極め」のポリシーあり

これは断言しても良いと思うのだが(そしてちょっと乱暴な言い方だが)、「指導」が早くなった。ザックリ言って本戦4分間における消極的「指導」などほとんどまったくお目に掛かれなかったパリ大会とはこの点、見た目だけを考えれば大きく様相が変わったと言える。

的確にテクニカルファウルを取る傾向はもちろん継続、ただし、攻守(というよりこの場合防御)の意思がハッキリ見て取れれば「指導」を取るという方針がより濃く出始め、「変則組み手(あるいは握り)を防御行動に利用する(明確に攻めない)」サイドには主審は躊躇なく反則を与えていた。もちろんパリ大会でもこの反則は取られていたわけだが、見極めが早くなったというか、審判団が自信を持って捌いているように感じた。おそらくは審判会議で何らかの意思確認、例えば「攻撃意思を見極めて、取るべき場面では恐れずしっかり『指導』を取る」などの通達があったものと思われる。私的な印象では、変則組み手に関してはもちろんのこと、特に一方的なグリップ(ピストルグリップ、ポケットグリップ)時の「攻める姿勢か否か」の判断がパリ大会より早くなったように感じられた。

消極的「指導」の増加に関しても、この「攻撃意思の見極め」が解釈のカギ。今にして思えばむしろパリが少々見過ぎ(そのくらいインパクトがある改正だったので当然慎重になったのだろうが)で、今回はパリで審判を凍らせた「45秒」という字句よりも、「攻撃しようとしているか」という本質の見極めにより重心を移したと解釈したい。IJFはルールの字句的にもその運用にも徹底的に「攻撃意思を見極める」ことに腐心しており、これをバックボーンと考えれば、この「指導」加速は1大会のみの局所的現象ではなく一貫性のある「進化」として観察するべきであろうと思う。つまり今後の大会の審判傾向はグランドスラム・パリではなくグランプリ・デュッセルドルフモードに振れていくと、現時点では考えておくべきだ。


「指導3」を取れるか?両者反則負け議論は加速されるべき

皆さんご存知の通り、新ルールの発表以降、国際審判員の岡田弘隆氏が幾度か自身のSNSで定期的にわかりやすい解説を試みてくださっている。情報リテラシーの高いファンの方々はおそらく定点観察をされていることと思うので私があらためて紹介するのも僭越だが、岡田氏はこの一連の記事のうち、パリ後の報告の文中で「IJF審判委員会のトップは『戦う意思のない選手は早く畳から降ろせ』というほどである。『退屈な試合は早く終わらせろ』ということである」との審判委員会の空気を紹介し、またその発言の意図を「短時間に、激しい攻防のあるダイナミックな柔道を展開するようにという狙いである」と解説している。デュッセルドルフ大会で現れた、攻撃意思の見極めを機動力とした「指導」の加速(というよりも的確迅速な「指導」付与というべきか)はこの流れに沿えば当然かと思われる。

ところがこれで急浮上してきた(少なくとも筆者の頭の中では)のが、試合者が同時に「指導2」を与えられるような消極的試合で試合の流れがそれでも変わらなかった場合、審判は毅然と3つ目の「指導」を宣告出来るのか、果たしてそれはどちらの側に与えられるのか、という問題。

57kg級で事実上の決勝と目された宇髙菜絵対ドルジスレン・スミヤの一番はこの問題を考える上で絶好の教材。得点経過は、28秒に双方に「取り組まない」咎で「指導1」、1分18秒再び双方に「取り組まない」所以の「指導2」。そして2分40秒、宇髙にのみ攻撃姿勢に欠ける(消極的)との判断で「指導3」、これで試合が終わってしまった。確かに宇髙は慎重で攻めの形を作るために手数を要してしまっていたが、さりとてドルジスレンが圧倒的優勢であったかというと決してそうでもなく、こちらも自身の優位創出のため切っては絞って組み手に拘り続けたのは同様。反則は動かぬ試合に業を煮やした審判が「強いて言うとすれば」と無理やりスコアに差をつけたというものと解釈される。おそらくこれが「3つ目」でなければ双方に「指導」が与えられたであろうシーンであったのではないか。試合は一貫してどちらが明確に優位とは言えない状況で、ディティールはともかく広角にズームアウトして薄目で試合を俯瞰したとすると、もし敢えてどうしても「指導3」まで与えねばならないとすればこれは両者反則負けが妥当であった。つまりこの試合はトータルで見て、審判の「敢えて差をつけるとすれば」の消去法的判断でスコア差でなく勝ち負けまでもが決まってしまったということになる。前回書いた「審判から選手が主導権を奪回した」という様相とこれでは真逆。

粛々ルール通りに「指導」を宣告することで片側の試合者を畳から弾き出してしまったこの試合とは逆に、「指導3」で試合を終わらせてしまうのを忌避したか極端にそれまでと「指導」宣告のペースが変わってしまったのが81kg級3位決定戦、ドリン・ゴトノアガ(モルドバ)とアンリ・エグティゼ(ポルトガル)の試合。29秒に両袖で防御した咎で、1分33秒には「取り組まない」との判断で双方に「指導2」までが累積したが、以後も切り離し合いに潰れ合いの泥沼様相は収まらず。しかし審判がおそらく「指導」宣告を控えた結果、試合終了4秒前に双方のアクションがかち合って見事な送足払「一本」が生まれることとなった。しかしこれを結果オーライのハッピーエンド(胴元から見た)と捉えて良いのかどうか。

そして。やはりここで思い出してしまうのは、山下泰裕氏がグランドスラム・パリ後に発言したとされる「(つまらない消極的試合は)両者反則負けを認めれば解決する」との言葉だ。前回書かせて頂いた通り、これは十分検討に値するプランではないだろうか。

「指導2」宣告後の両者膠着をどう裁くかは、以後のルール議論で相応の位置を占めるはず。選手が「常に攻めて、投げを狙っていれば今までのルールとそう変わりない」という態度で稽古と試合に臨むこと(これはまったくその通りだ)とは別に、胴元としてこれはしっかり整備しておかねばならない境目、ルールの光(エキサイティングな試合の創出というポリシー)と影(排除されるべき消極的試合に対する、ポリシーの徹底度)が交錯するトワイライトエリアだ。毅然と運用で解決するのか、それとも山下氏が提案するように「両者反則負け」というフレームの変更にまで至るのか、はたまたこのルールが浸透した結果選手の志向が変わって消極的試合自体が激減しこの問題が取るに足りない有効値以下のものに極小化するという驚きの最善シナリオが現出するのか。まずはIJFが打ち出す「次なる傾向」に注目である。

 
再改正ポイントとしての「後の先」規定のクローズアップ

IJFは一貫して、実相に噛み合わない字句や運用など、ルール面で勃興した「理不尽な事態」に対してはこれを捨て置かず、真摯に解決する態度で臨んで来た。なので今回のルール試行期間で起こっている、彼らが本来意図せぬ「理不尽さ」「噛み合わなさ」は必ず議論の俎上に上がっているはずだ。
おそらくその最大のものの一は、「返し技」(Throw and counter-attack)の問題だろう。「取の攻撃に対して受が返し技を施した場合、自身の体が先に着地した選手が投げられたこととする(In a case of attack and counter-attack the first competitor landing on their own body will be considered the loser.)。」に始まる一連の規定だが、これは幾度か実相に噛み合わぬ場面があった。この「後の先問題」は北京五輪後に始まった一連のIJFルール改革の黎明期から常にルール規定と運用の最前線にあり続けたものであるが、今回の定義はやや乱暴に感じた。おそらくこの違和感は既に審判委員会内でも話題に上がっているものと思われ、今後なんらかのアクションがあるものと予想される。具体的に「死に体」の見極めというような、かなりの審判技量が必要とされるところまで踏み込む可能性すらあるのではないか。字句を明確に定義してなるべくジャッジを簡素化×客観化×公平化するというのがIJFの方針ではあるが、既に「攻撃意思の見極め」という高いレベルまでルールが踏み込み、それを実現できるほど審判技量の平均値が上がっている現在なら十分ありうることと思うが、いかがであろうか。

 
「ブリッジ反則負け」問題について

パリでもファンの間でかなり話題となった「頭ブリッジの反則負け」(「一本」を避けるために故意に頭での着地を行った場合は反則負け=“When a competitor intentionally falls into the bridge position to escape Ippon,”)の運用が厳格過ぎるとの案件は今回も収束せず。今回私が視認したのは初日のセドリック・ルボル(フランス)対ダビド・プルクラベク(チェコ)の1件のみである。

http://www.judobase.org/#/competition/contest/gp_ger2017_m_0060_0014

 
見ての通りかなり微妙なケース。頭は畳に瞬間的に触ったのみで、落ち方は腹這い。「危険な回避技術の開発と拡散を避ける」「重大事故から選手を守る」というこのルール本来の目的に抵触するかという観点から、この試合のこの場面に絞ってだけコメントするのであれば、個人的にはこれはセーフであっても良いかと考える。にも関わらず反則負けを取ったこの現象をどう考えるか。微妙なケースであるがゆえ、典型的な形よりもよほど色々なものが見えてくる。例えば審判(あるいはIJF)の側に危険行為と不可抗力の見極めについての明確な判断基準やジャッジ経験が足りないと解釈することも出来るし、前項「一貫して、実相に噛み合わない字句や運用など、ルール面で勃興した『理不尽な事態』に対してはこれを捨て置かず、真摯に解決する態度で臨んでいる」というIJFの姿勢からすればテコ入れの可能性すら考えることも出来るだろう。

が、筆者は、IJFが敢えてリアクションを鈍くしてこのままいわば一種厚顔に「疑わしきは罰する」姿勢を取り続ける可能性が非常に高いと考えている。パリ以降“微妙なケース”がそれも“頻発”していることは偶然ではないと捉えたい。なぜか。最大の理由はこれが柔道のイメージを守るというIJFの最優先事項(「柔道競技を面白くする」ことを超えた)に直截に関わるからで、もう一つの副次的な理由は、アグレッシブに対応しようにも「不可抗力の見極め」基準の議論は結局終わりのないイタチごっこに陥る可能性が高いからだ。

重大事故は決定的に競技のイメージを傷つける。もちろんそれがオリンピックや世界選手権、ワールドツアーという晴れがましい場でなくとも(むしろそういった場では選手の技術的肉体的レベルが高いので事故の可能性は減る)だ。危険なスポーツ、重大事故のリスクを容認する競技というイメージは一つのジャンルにとって致命傷だ。そしてルールで禁止さえすれば、その「危険な形」は、統計的には必ず減っていく。その中には不可抗力にも関わらず負けとされてしまう理不尽なケースも当然含まれようが、この先極小化していくであろうレアケースを救済するといういわば「小さな公平性」を担保するために柔道競技全体のイメージダウンという大きなリスクを冒すのは、巨視的観点からどう考えても収支が合わない。

「イタチごっこ」について。ざっくり言って、かつては投げられた際に「①頭を着く」「②体を反らせる」という2項を満たすことが反則裁定の条件であった。①には不可抗力がありえるが②は明確な意思が伴うからこの基準はフェア。しかしこのうち②さえ満たさなければ反則は取られないと曲解した選手が「頭はつくが反則は取られない」回避技術を見出しこれにIJFがNOを突きつけたというのが、これまでの流れ。そしてこの②に関して、胴元側がフェアであろうとして故意か不可抗力かを見定めるためのどんなに的確な基準を設けようとも、基準を設ける行為自体が次の「曲解」とも言うべき新たな回避技術作成の可能性を生んでしまう。

たとえば、「背負投を逆側から抜け落とす」投技によって頭を着いた場合は不可抗力とするというエクスキューズ条項が生まれたとすれば、必ず「背負投の逆抜け落としは頭で畳に着地しろ」と指導する国と指導者が現れる。よりプリミティブに「頭から着地しても腹這いで落ちれば不可抗力」と規定すれば必ず頭支点の反転技術を練習するものが現れるし、「頭が瞬間的に畳に触って体重が掛かっていない場合は不可抗力と認める」とすれば非常にリスクのある「そう見える」落ち方の習得にリソースを注ぎ込むものが現れるだろう。そしてここ数年の業界の傾向通りに有効と見れば爆発的にフォロワーが増え、若い世代で真似をする選手も、様々な国や地域で次々現れることだろう。これはまさしくIJFが望む方向とはまったく異なる「危険な技術の開発と拡散」に他ならない。

頭から着地すること自体が本質的には危険な行為である以上、そしてIJFが頸部や頭部の重大事故によって柔道が危険なスポーツとみなされることを絶対に避けねばならぬと考えている以上。彼らは、不可抗力の誤差を飲み込んだ上で、「一律字句通りに反則負け」以外に手立てがないと判断するのではないか。グレーゾーンは黒として扱い、とにかく「その近辺に寄り付くな。寄って来た奴には文句を言わせない」というスタンスを取ることも厭わないのではないか。IJFのリスクヘッジと「柔道の価値を対外的に高める」ための収支から考えれば、この選択十分あり得ると思うのだが、いかがであろうか。

個人的には、体を完全に固定されて頭から叩き落されたような場合に受が反則負けになることくらいは勘弁してもらいたいと思うが、もはや論点はこのあたりのみの気すらする。極めて近い将来「頭から落ちてしまったから負けでも仕方がない」くらいの価値観と世界が生まれることになるのではないか。

ではこのあたりでいったん稿を収めさせて頂く。結局それなりに長くなってしまった。今回も長文にお付き合い頂き、心から感謝したい。


文責:古田英毅
Text by Hideki Furuta

※ eJudoメルマガ版3月4日掲載記事より転載・編集しています。

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