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【eJudo's EYE】日本人に贈る、新ルールを迎える態度とつきあい方の提言

(2012年12月18日)

【eJudo's EYE】日本人に贈る、新ルールを迎える態度とつきあい方の提言



※eJudo携帯版「e柔道」12月15日掲載記事より転載・編集しています。

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もがき続けるIJF、
どうすれば柔道は「面白く」なるのか?



IJF(国際柔道連盟)は9日、2013年に試験運用される新ルールを発表した。

IJFはロンドン五輪後の10月2日に国際会議を招集、ニール・アダムスやサイゼンバッハといった各国のトップコーチ、国際的にオピニオンリーダーとなり得る人材を招き(もちろん日本も代表を送り込んでいる)、今後の「柔道競技」をどう仕切っていくかについて意見の交換を行った。

その冒頭、IJFはロンドン五輪で繰り広げられた試合の内容を低調と総括。これを前提に柔道をよりスペクタクルで面白いものにするという視点から、彼らによって数時間に渡り極めて活発な議論が交わされたのだ。

11月末のグランドスラム東京時にマリアス・ビゼールIJF会長が「deep analysis」と呼んだ数ヶ月に渡るロンドン五輪検証の一環として行われたこの会議、その後紆余曲折はあったが、9日に発表された新ルールはこの時の議論の内容がほぼそのままベースとなっている。

さて、もう一度これまでの流れをおさらいすると。

2008年の北京五輪の試合内容に危機感を抱いたIJFは、柔道の魅力の中核である「投げ技による『一本』」決着を引き出すべく、矢継ぎ早に新ルールを採用。一連の改革は一定の成果を挙げ、2010年東京世界選手権、11年パリ世界選手権で「一本」の決着が増加。IJFが目指すダイナミックな柔道、その道のりは順調であるかに見えた。

しかしその施策の総決算であったはずのロンドン五輪で現出したのは、お互いがリスクを冒さず、組み手争いと掛け潰れによる相手の技の封殺という超戦術的トレンドの横行。五輪というハイプレッシャー状態、誰もが負けたくないと臨む究極の場では、IJFが取り組んできたルールによる競技の方向づけは無力化。技術的な制限が増えたことでむしろ4年前よりも「一本」が減るという低調な結果に終わった。

IJFは、柔道で「食う」ということに関してはまことに真摯で貪欲である。「テレビで見ている人が、何が起こっているのか良くわからないうちに勝敗が決まっていった」(同会長)というこの事態を問題視、即座に行動を起こしたのが前述の国際会議、そして今回の試行ルールリリースの背景である。

北京五輪後の怒涛のようなルール変更に続く今回の大改革。そしてグランドスラム大会や世界選手権という最高権威大会をテストの場として利用するという姿勢。(09年の「足取り禁止」時の試行期間は10月の世界ジュニア選手権から12月のグランドスラム東京までの5大会のみだった)

どうすれば、観客にとって柔道は面白くなるのか。スペクタクルな「一本」が生まれるのか。

IJFは、のたうっている。
08年以降激しくもがき続けるIJF、その「もがき」の新たな表出が今回の試行ルールである。


新ルールの評価にあるべき態度とは


さて、内容について我々が考えるときに、まず前提としておきたいのはこれが、「競技を面白くする」ことを目的としたルールだということだ。前述のIJFの会議では柔道をスペクタクルなものにするという観点で議論は終始一貫しており、たとえばそこに「武道としていかにあるべきか」という視点は微塵もない。

よって、例えばこの規則の各項目について個別に「武道的な観点から好ましくない」というような反論を持ち込むのは筋違いだ。武道性を持ち込む場合はまずこのルールを支える前提条件自体の見直し、柔道を「スポーツ」として扱うことの是非という一段高い位相に昇って議論すべきということになる。

もちろん、その位相の議論もマクロには十分為されるべきであるが、例えば武道観点での是非、競技としての面白さ、日本にとっての有利不利というそれぞれ位相の異なる視点をまぜこぜに持ち込んでは見えるモノも見えなくなってしまう。ここはまずこの前提をもとに、競技規則としての出来を冷静に判断してほしい。

もう1つ飲み込んでおくべき前提条件は、これが、IJFの個人戦用に特化して考えられているということだ。すなわち「同じ程度の体格の選手が」「ある程度決められた時間の中で」「わかりやすく、かつ必ず勝敗を決める」ことがこのルールの大前提である。これを踏まえずに個別に内容に踏み込んでしまっては議論は迷走するだけだ。

余計なバイアスや「国際柔道は日本柔道の目指す方向とは違うはずだ」というふた昔前の先入観、敵愾心を持たずにまずはフラットにこのルールを評価してほしい。

そしてもう1つ。
IJFは、のたうっている。もがき続けている。
ただしこれ自体は悪いことでは全くない。

武道由来の競技というのは、もともと「やっていること」があって、ではその中のどの部分を取り出してゲームとして成立させようか、といくつかの枠を設けてある意味無理やりに競技化したものである。柔道で言えば乱捕という修行の一局面を取り出し、さまざまな枷と規則を当てはめることによって「スポーツ」として整えたもの、これが「柔道競技」だ。
たとえば「手を使わない球技を作ろう」というような「ルールありき」で作られた(サッカーが実際にそうかどうかという議論はここでは置く)競技とは由来が全く異なる。

スポーツであればルールの枠を最大限に利用して勝利の果実を得ようとするのは競技者として当然である。ゆえにこのプレイヤーとしては当然の行動が、本来由来とされるはずの武道にあるべき態度やスタイルを侵食してくることも必然的に起こりうる。

よって、逆説的だが、変化しないと本質が守れないという事態も、ある程度の頻度で必ず起こってくるのだ。

我々は「武道」を支持する限り、「競技」の枠組みの変化には柔軟であるべきではないだろうか。そしてその変化が武道を守るために適当なものであるかどうか、その部分の冷静な観察者であるべきではないだろうか。

あまりにも変化が急で、かつ頻発されるため、変化すること自体であたかも定見がないがごとくに批判を浴びやすい一連のIJF改革であるが、この点は我々日本人の「柔道は武道であってほしい」という欲求と実は合致するのだ。
現役競技者の困惑はまことに正当なものであるが、変化しようとする態度自体はポジティブに捉えるべきだ。少なくとも、仮にスポーツがその由来する武道の本質を侵食するまでに変質している事態が起こったとして、それを何十年も放置しておくよりはよっぽどましだ。

守るために、変化する。この態度自体はぜひとも受け入れてもらいたい。

ただしひとつ釘を刺しておくと、これは十分な議論が為された上でということが絶対条件である。
トップダウン体質が批判の的となっていたIJFは今回は国際会議を招集してすくなくとも意見を聴取する場を設け、10月中には主要国にルール変更の原案を送り、そのレビューを吸い上げている。ギリギリの決定段階にはやはり強権の発動があったと耳にはしているが、少なくとも各国はそのスタンスを表明する場を与えられていたわけだ。全日本柔道連盟は、この過程でわが国が何を主張し、何を是とし、何を否としたのか、国内の柔道家たちに対してその態度を詳らかにする責任があるはずだ。この点はしっかりお願いしたい。

そしてもうひとつ、頻発するルール改正のもたらしたポジティブな面がある。
それは、これまでルール変更の都度「これでは柔道が柔道でなくなってしまう」と激昂してきた層の柔道関係者が、あまりに頻発するルールの改正に「我々が道場でやっている「柔道」と「柔道競技」はどうやら(地続きだけれど)明らかに違うものだ」と皮膚感覚で理解しはじめたであろうことだ。

正確には違うものではない。柔道競技は大きな「柔道」の中に含まれる枠の一つで、柔道は柔道競技を包含する。

IJFの競技規則が変わったから明日からうちの道場では掬投も切り離す行為は禁止、という行動に出る方々は少数派だろう。もともと「柔道」は懐が広く、スポーツ的な価値観でいえば別競技になるはずの寝技重視の七帝大戦も「柔道」、講道館ルールも「柔道」、IJFルールも「柔道」、掛け試合も「柔道」、引き立て稽古も「柔道」ならば捨て稽古も「柔道」である。

競技規則は柔道をスポーツとして成立させるための一種の方便、もしくは文化の異なる世界の選手に「柔道」をさせるための枠組みの一つでしかないという観念が普及しはじめた、この状況があれば、これからは全国の柔道家あげて冷静に、競技ルールの観察と評価が出来るのではないだろうか。ともすると競技の腐食にそのまま侵食される構造にあった「柔道」が、その手足を冷静に俯瞰できるようになるであろうことは、前向きの波及効果の一つだと考えたい。


目的は合致、細則に違和感


具体的なルールの評価に触れておきたいと思う。

今回のルール変更を貫くポリシーは、「一本」、特に投げ技による「一本」を志向させるということと、判定の曖昧さや不公平感を配してわかりやすく決着をつけるということだ。

攻撃による「一本」をプロデュースする。そのために二本持ってしっかり組むことを推奨し、反則ポイントと攻撃ポイントの得点系列を分けて攻撃の重要性を高からしめ、判定決着を廃する。

細則の是非はともかく大雑把にその志向を考える限りIJFの「柔道を面白く」という目的と、日本が提唱する所謂「正しい柔道」のスタイルは、偶然か必然か、大枠合致している。二本持って、お互いがある程度のリスクを採って仕掛けあい、攻防し、投げによる決着を目指す。日本人の中にこの目的自体を否定する人はほとんどいないだろう。

筆者は常々、日本が推奨する「二本しっかり持つことの意味と目的」の対外的な説明が足りない、論理的な言語化が為されていないと感じていた。そのほうが伸びしろがある、では国内の育成には効くが対外的な説得力には欠ける。
筆者はそれを「そのほうが面白いから」と説明すべきと考えてきた。もう少し詳しく言うと「攻撃の多様性と攻防の妙味が確保される。やるものにとっても見るものにとってもそのほうが面白い」ということなのであるが、図らずもIJFの側から同様の見解が示されたという形だ。日本がプレゼンするまでもなく(ひょっとすると日本が提唱したからかもしれないが)、IJFはお互いに袖と襟を二本持つことが柔道の魅力を引き出す、という見立てを提示してきてくれたわけである。

よって今回のルール、おそらく国内の多くの柔道関係者が「思っているよりも、しっかり柔道をしようとしてるじゃないか」という見解を持つのではないだろうか。

抑え込みの時間短縮もゲーム運営という観点からであれば異論の差し挟みようはないはずだ。攻撃ポイントと反則ポイントを二本立てに分化して攻撃ポイントにアドバンテージを与えるというのも相当に建設的な考え方だし、「一本」の成立条件をより厳密に判断するというのはそもそも数十年来日本が提唱してきたことだ。判定決着の廃止などは極めて日本的な「先祖がえり」だが、おそらく一般的な日本人の発想の遥かに上を行っているのではないだろうか。

一方、組み手にまつわる反則条項は賛否両論のはずだ。「やりすぎ」と捉えるか「二本持つことを徹底させるために一定期間必要な痛み」と捉えるか。一時流布された「10秒以内に二本持たなければ反則」という案は撤回されたようだが、この項目は手探り、未整理の印象。こここそまさしくこの9ヶ月のテスト期間に検証されるべきポイントだろう。

ただし、「足取り完全禁止」はいただけない。
これまで限定的に認められていた返し技や連絡変化は攻防のまさしく妙味だ。
武道性という観点はさておき、ビゼール会長は「返し技、連絡技かどうかの見極めが難しい」ということを理由にあげていたがこれは本末転倒ではないか。競技としての浮揚を目指す時にルールにまつわる手立ては極端に言うと2つあって、1つは審判員のレベルを上げること、もう1つはどんなレベルの審判でもジャッジできる程にルールを単純化することである。IJFは審判員のレベルを上げることとルールの整理でこれに対応してきたわけだが、「ジャッジしにくいから技術を切り捨てる」というのであれば、これは他規則と異なるポリシー、ダブルスタンダードだ。柔道自体の質に関する影響も相当に大きい。この件は単に試合を観察するだけでは検証のしようがないのではないか。明らかに再考を促したい部分だ。

一審制については、あくまで「場内に一審」ということで、審判員の削減ではなく職掌の分散、配置の転換という体を取っている。これについて書くと長くなりすぎるのでここでは詳しい言及は避けるが、これはテスト期間に観察すべき、目玉のトピックになるだろう。

いずれ、今回はテスト施行。我々柔道ファンには1月から10月まで、試合を観察する期間が与えられる。熱く、冷静に、その影響を見極め、議論して、柔道の行く末を見つめようではないか。


今後も続くルール改正、日本はどう付き合うべきか?


さて、前掲の通り、IJFはのたうっている。柔道をどうすれば「見る側」にとって面白い競技にできるのか、これを求めて、必死でルールの改正を続けている。
IJFが競技団体である以上、競技の方向性を定めるにあたり「ルール」というツールを最大限に使うのは当然だ。というよりも、競技団体にはそれ以外に行使すべき武器がない。前述の通りルールの枠を最大限に利用して勝利を追い求めるのはスポーツのプレイヤーとしては当然のことなので、IJFが「柔道競技のあるべきバランス」を追い求める限り、競技者のトレンドに対応して、今後もルール改正は続くだろう。
今後もルール改正は続く。これは間違いない。

ここに2つ問題を提起したい。

ひとつはドメスティックな問題、日本はその都度、これまで通り国内のルールも全てIJFに合わせて変更するという態度を取り続けるのか?ということだ。

もうひとつは、もしもこの「ルールによる規制」という方策の限界が見えたときにIJFはいったいどうするのか?という問いである。

ひとつ目の問題には色々な意見があって然るべきだが、筆者は当面シニア以下、もっと言えば、世界選手権と五輪の選考会以外は新ルールを採用する必要はないと考える。理由は2つだ。

ひとつは、単純にこれが試行という段階にあるものだからだ。IJFはリオ世界選手権終了時のルールの再検討を明言しており、本採用になるのか、微調整が加わるのか、はたまた全く撤回されるのか、現段階では不透明。この段階で、IJFの壮大な実験に、日本の競技団体が振り回されて多大な労力を費やす必要はない。

もうひとつは、前提条件が全く違うから。加えて今後もIJFが提示するルールは同じ前提条件でありつづけるだろうから。そして異なる前提のルールの採用によって失うものがあまりにも大きすぎると考えるからである。

ある程度同じ体格の選手(異なる文化的土壌から輩出された、と付け加えてもいい)が、ある程度決まった時間内で、なるべくはっきり差をつけて必ず勝敗を決めるというのがIJFルールの前提条件。ケアシステムと一体化した場内一審制という新制度とセットで、このルールはよりカスタマイズの進んだ「IJF国際大会仕様」ルールと考えても良い。

しかし日本には、これら「IJF仕様」とは異なる前提条件でのみ成立しうる大会、生息できる文化がある。その文化の中で揉まれた中から歴代の最強選手が輩出されてきたという強化的な事情、さらにこの文化に参加し得る人間のパイが個人のチャンピオンスポーツのそれに比べて大きいという普及という文脈での打算はもちろんだが、なにより、豊かで魅力的な文化は、まさしくそれが豊かで魅力的であること自体を理由に存続すべき価値と意味があるのではないか。

たとえばそれはまず団体戦だ。抜き試合の高校選手権に金鷲旗、無差別団体のインターハイ、全部員が大学の伝統と威信を掛けて戦う全日本学生優勝大会。日本の学校柔道における団体戦にはもはやそれ自体が一つのジャンルとして扱われてしかるべき、選手や指導者の生きがいとなりうる存在感がある。

団体戦が作り出す世界の魅力は多くの柔道愛好家にとっては個人戦のそれよりも遥かに大きく、それは「体格の劣るものでも、方法論と練磨で大兵を凌ぎ得る」「チームに貢献し得る」という、引き分けありの講道館試合審判規定によりプロデュースされてきたものである。日本の強化の大きなウエイトを占める学校柔道において、最大のモチベーションは間違いなくこの団体戦だ。これに勝つために各校は資金を投下し、指導者は知恵を絞り、結果競技の発展と強化に大きく寄与してきた。

今回のIJF試行ルールの「両手での切り離しの実質禁止」「足取りの全面禁止」は、当たり前の話だが、無差別の戦いを前提としていない。団体戦においてのこのルールの採用は職人肌の小兵選手や個性派の「止め屋」にとっては死活問題だ。特に全体として選手の小型化の進む高校柔道は、単なる大型選手の数比べに堕する危機を孕む。
もはや「文化」と呼んで良い、これらの大会を支えるルールを機械的に変更してしまっては、たとえ大会や団体戦という制度自体が残ったとしてもその魅力は骨抜きである。失われる技術や方法論も質量ともに相当のものがあるはずだ。

ルール変更に振り回されずにあるべき柔道と強化のスタイルを貫くという意味においては、もうシニアの個人戦以外はすべて講道館試合審判規定に戻しても良いとすら思うが、暴論に過ぎるだろうか。

日本こそ「ルールは懐広く」「あるべき姿は規範を持って」という理想の姿のモデルケースになるべきではないか。IJFがのたうつ、いかに「投げ合う」か、その答えを日本に求めるような状況を具現化してやればいい。

IJFルールに国内のレギュレーションを合わせるべきだ、という方々は当然国際的な競技力の錬成をその理由として主張するだろう。それも一理ある。むしろ当然だ。そして何にプライオリティを置き、何を切り捨てて、何を得るべきか、これこそこまさしくこれからの日本が議論すべきことである。

ただし、心に留めておきたいのは、全世代において強い国というのはなかなかないということだ。フランスは若年層の試合自体が僅少でジュニア世代は決して物凄く強いわけではないし、韓国も大学の軍隊式訓練に入る前の高校世代のレベルはさほど高くない。どの世代に競技力のピークを置いて、どのようなスケジュールで練磨するのか。ルールの採用はこのビジョンとセットで議論されるべきではないか。

先に記した文化の喪失が起これば、それとともに具体的な技術も間違いなく失われていく。失った技術の多様性は戻りようがない。万が一数十年スパンでIJFルールに揺り返しが来たとして、ではあの技術をもう一度、というほど技術や文化の継承は安易なものではない。
一方、IJFルールを自身の柔道の「枠内」におさめておくような広い枠を保ち続ける限り、理屈としては対応が利く。広い枠の柔道で選手を練成し、枠内のどこかを取り出して構成される、その時のIJFルールに対応して国際大会を戦うというのが賢明だと思うのだが、いかがなものであろうか。都度都度のIJFルールの変更に、もはや国内の運用は細かく振り回されるべきではない。それはあくまで柔道という大きな括りの中の、競技という一側面、それもIJF主催の国際大会というあるひとつの「枠」、ゲームのルールの調整に過ぎないからだ。
柔道関係者には受け入れ難い例えかもしれないが、ムエタイの選手がK-1に出場するときにはヒジを使ってはいけないというルールにアジャストして戦ったように、地力をしっかり練った上で、戦術的に国際大会にアジャストするというのが戦略としては妥当ではないだろうか。強化、文化、育成、理念、普及、あらゆる観点からの徹底的な議論を期待したい。


いや増す講道館の「潜在能力」への期待


そしてもうひとつの問題。もしもこの「ルールによる規制」という方策の限界が見えたときにIJFはいったいどうするのか、という問いである。

ルールによる規制で競技者の志向をコントロールするというのはスポーツとしては極めてまっとうな考え方だ。だが、北京で失敗し、ルールを変更して臨んだロンドンでも失敗、そして万が一リオで失敗したら、さすがにもはやこの考え方自体を疑うべきだろう。武道由来のスポーツを、ルールでその方向性を規定するというこの実験が、もし失敗に終わった場合いったい競技団体はどうすればいいのか。

これに対する明確なソリューションは、現在のところ、ない。

IJFが現在志向しているのは二本しっかり持つ王道の柔道、投げによる決着、リスクを冒しての攻め合い。柔道というルール上は非常に懐の広い競技の中で、これらは本来「規範」や「美意識」として捉えられる性質のものであったはずだ。近年のIJFによるルール変更の繰り返しはつまり、長いスパンで見れば文化受容の過程における悪戦苦闘の歴史、ルールという共通言語でもってこの代替を果たさせようとしてきた文化実験と捉えられてもよいはずだ。

ではやはりルールではこれができなかった、として。どうするのか。仮定に仮定を載せたいささか先走りの予測であり現時点でその方向性を探ることは困難、IJFの考え方を見守るしかないというところだが、ここでクローズアップしておきたいのは講道館という機関である。

競技団体ではなくその序列の埒外にあり、かつ家元としてすべての柔道家から尊敬を集めうる、「ルール」以外の理念を発信することに説得力を持つ唯一の機関である、講道館である。

具体的なステートメントで世界を仕切るべきだとか講道館の発言に制度上の強制力を持たせよということではない。将来、ルールでは競技のあるべき姿は仕切れない、もしそうなったときに柔道のオリジンとして、柔道とは何なのか、柔道の立ち戻るべき場所はどこなのか、世界がそれを真剣に考え始めたときに、それを明確な言語で世界に発信できる見識と力を持っていてほしいということだ。世界中の柔道家から家元として尊敬を集め、立ち戻るべき場所として競技的な利害の埒外から発言でき、それに立場としての説得力が伴う機関はこれのみ。実は講道館の潜在的な価値はいや増しているのではないか。

全日本柔道連盟は、純制度上でいえばIJFに参加するいち競技団体、199分の1に過ぎない。日本の発言力が低下していると言われて久しい(実際にそうかどうかはここでは置く)が、この観点に立てばそれは当然といえば当然だ。これは余計なことかもしれないが、そんな中、講道館という家元、競技団体の序列の埒外にある機関がブランド力を強め、柔道界におけるプレゼンスを高めるのは日本の国際戦略にも適うのではないだろうか。

余談ながら、2010年に講道館が講道館試合審判規定を修正するのではなく、現行のままで「運用しないが保存する」という形で残したのはこの点まことに英断であった。少なくとも「ルール」には立ち返るべき雛形がここに残されている。

武道由来のこの競技には、行き詰まったときに立ち戻るべきオリジンが必要だ。

柔道競技の発展を担うのはIJFでいい。競技力の強化は競技団体の仕事だ。 しかし柔道全体の叡智を担う機関は講道館であるべきだ。職掌としてこの機能を担える可能性がある機関は講道館だけだ。率直に言って、ここ数十年、国内でも、国際的にも講道館の存在感は上がっているとは言いがたい。競技団体があるべき方向を求めて迷走を続けるこの時期、これからの数年間であるからこそ、講道館が立場という圧倒的なポテンシャルだけでなく、これに値するだけの能力と見識、発信力を獲得することを、切望する。


文責:古田英毅



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