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【eJudo's EYE】ロンドン五輪総評(1)柔道は面白くなったのか?

(2012年8月9日)


※eJudo携帯版「e柔道」8月8日掲載記事より転載・編集しています。

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「見る」柔道を魅力的に、4年ごしのIJF改革は実ったか?


ロンドン五輪の「柔道」を総括したい。

おそらく読者が期待するのはまず日本代表の競技成績に対する評価、つぎにそこに至る日本代表の強化プロセスに対する評価と提言であると思う。既に各種メディアが取り組んで一定の弾数が揃いつつあるこのトピックについては稿を改めて勿論言及させていただくが、各種評論をここまで読ませていただいた限り、少なくとも、極端に的外れなものはほとんどないという印象だ。どのメディアも、どの識者(おもに組織外にいる良識を持った柔道人)も強化の過程で既に問題を色濃く感じており、それを事前に分析・熟成、負のシナリオが出た今回一気に開陳しているというわけで、そこには刹那的な評、感情的なリアクションはさほどない。よって的外れな評も少ない。ワイドショーが連れてくるような門外漢のオーソリティの評を除けば、十分読者が読む、もしくは観るに耐えうるものであると思う。よってこれは敢えて、ファーストトピックからは除く。

eJudoが今回の五輪で最も注目すべきと考えるのは「果たして柔道は面白くなったのか」「魅力的でありえたのか」というジャンルとしての自問、この一点に尽きる。人材供給難が課題になっている柔道界、ジャンル全体の浮揚のためにもまずなによりも競技として魅力的でありえるかどうか、4年に一度だけ柔道を見るという層に対して説得力のあるパフォーマンスが出来たかがどうかが最大のトピックであると思うからだ。まずそのことについて書きたい。

期間中のコラムでも書いた通り「『効果』ポイントの廃止」「『指導2』以上への試合決定反則ポイントの引き上げ」「いきなり足取りの禁止」「場内外の規定変更」「タップリとした新柔道着の採用」、「いきなりもろ差しの形を取っての小外掛の禁止」。これは全て北京五輪以降このロンドン五輪に至るまでの4年間の間に立て続けに実施されたものであり、「柔道を(観戦者にとって)魅力ある競技にしよう」とのIJF(国際柔道連盟)の強い意志によるものである。

マリアス・ビゼールIJF会長が2010年の来日時に「サッカーなどのメジャー競技のように、毎週末には世界中のメディアで柔道が取り上げられるようになりたい」と語ったように、ワールドツアー制の採用も、つまりは柔道をマスな層のスポーツファンに受け入れられるもの、魅力のあるもの、まだまだ柔道を「やる」層がほぼイコール「みる」層である現状から、観戦して面白いスポーツ、観て魅力のある競技へと引き上げていこうという意図によるところが非常に大きい。賛否両論、そして武道性の担保や競技特性としての向き不向きという質の異なる観点からの異論反論はもちろんあったが、競技柔道を「見て面白いスポーツ」に仕立てていこうという一本の串に刺されたこの一連の改革は止まることなく次々に実施され続けた。

そして、IJFが発見し、押し立てようとした柔道の魅力とは明らかに「投げ」にある。

それはギリギリのタイミング、五輪競技が始まってから発動された「技の評価」の厳正化にも見て取れる。今回はいったいに技の評価が辛かったというのは衆目の一致するところで、まだ統計は出ていないが、インカムによる技の修正、バルコス主任審判理事の「天の声」による技評価の修正はおそらく「1ランクダウン」が「アップ」よりも明らかに多いだろう。これは単に「今回は評価が辛いね」と審判傾向に詠嘆して終わるのではなく、IJF内に技の完成度までしっかり見て、相対的に「一本」の価値を高めようとしている取り組みがある、と分析されるべきである。

さて、一連の改革は、この五輪本番を迎えるまではある程度効を奏しつつあった。足取りではない「投げ」を追及する柔道、勝敗のハッキリつく試合。足取り禁止やベアハグ禁止というルールの制限をすり抜けて自らのパワーを生かすために編み出されたハッシュバータル・ツァガンバータルらモンゴル勢の「足を取らない掬投」、2010年世界選手権のケナ(ブラジル)らの使用により以後大流行して標準技術となった「足を取らない肩車」や奇襲技としての横落の流行などのカウンターカルチャーの面白さも含めて、11年パリ世界選手権あたりまでは、投技による「一本」決着は増加していた。投技の切れ味をアイデンティティの中核とする日本勢、09年ロッテルダム世界選手権では金メダルゼロという惨敗に終わった日本男子が「足取り禁止」実施1年経過後の東京世界選手権では4個(無差別含む)の金メダルを獲得していることにもそれは端的だ。
技術としての消滅が危惧された掬投や朽木倒等の「足取り」を含む投技も審判基準が落ち着くにつれ可不可のラインが明確になり、連携技として積極的に使われる傾向さえ出て来始めた。近年の「一本」率は50%強(固技含む)。IJFの語彙を借りれば「ダイナミック」な柔道への道のりは大枠順調と思われていたのだ。

しかし今回、五輪というその決算の場でどうやら揺り返しが来た。

大会数の大幅な増加と溢れかえる映像情報に下支えされたあまりにも過剰な相互研究、そして人生の掛かる究極の場での「負けたくない」という意思ゆえか、相手に持たせずに自分だけが持ち、先んじて技を仕掛けることで相手の技を封殺する戦術が横行したのだ。
対人格闘技であり相手があって成り立つ競技であるはずの柔道で頻発する自己完結。「投げる」ことでなく「掛ける」こと自体、そして「相手を封じること」を目的として仕掛けられる投技。
「柔道」というジャンルには色々なアスペクトがあり、五輪という場はこのうち「競技」というひとつのアスペクトの極北。よって「競技性を重視しすぎだ」「これは柔道じゃなくてJUDOだ」というような4年に1度聞かれる定型の批判はそもそもがナンセンスだが、それにしてもこれはあまりにも行き過ぎだ。タックル柔道という一流派、トレンドの栄枯などこれに比べればずいぶん小さな問題だったのではないか。

組み際のタックルが横行した→ズボンを持つ行為を禁止した→足自体を抱えるようになった→下半身への直接攻撃自体を禁じた→もろ差しのパワー技が出現した→組み際のもろ差しを禁じた→

そして、組み合って投技の優劣で試合を決める、となればハッピーエンドだったわけだが、結果として出てきたのは、ルールの分析から導き出された「相手に持たせずに自分だけが持ち、技を仕掛けること自体で相手の攻撃を封じる」超戦術的トレンド。行き過ぎた相互研究とのっけに書いたが、おそらくはその研究のかなりの労力が「相手の持ちたいところを持たせないまま仕掛ける」という行為に費やされたのではないか。そう思わざるを得ないほど、そして戦術傾向として分析するのが馬鹿馬鹿しくなるほど、当たり前に、「持たせずに一方的に掛ける」行為は行われ続けた。全く持たせない状態では相手が前に出てこないので結局自身の投げも決まらない。これを志向し続ける限り、そして精度高く行えば行うほど、究極、美しい「一本」は生まれないのだ。

「『柔道が面白くなくなった』という人は単に日本人選手が勝てないから面白くなかっただけではないか」という見方がある。一面これは当たりである。しかし、まさに福見や中村が嵌った「徹底して良いところを持たせずに先んじて掛け潰れて攻勢を取る」は大会全体を通じた傾向でもある。海外勢同士の試合を流し見ていて、これほど面白くない五輪は滅多にない。勝利のために戦術を追及するのは競技者として当然であり、その位相での良否を問うているのではない。単に、これは競技として面白くない、世の人にお見せするものとして魅力に乏しいと言いたいのである。
92年アトランタ五輪での吉田秀彦の豪快な内股、古賀稔彦の一本背負投、08年北京五輪でデコスと谷本歩実が演じた激戦と「一本」決着。これを見て痺れなかった人間はいなかっただろうし、実際にこの試合をきっかけに柔道を始めたという選手も数多い。しかし今大会で繰り広げられた柔道に人は惹きつけられるだろうか。選手のパーソナリティではない。こういう勝負が繰り広げられる場をジャンルとしてセットできているかどうかが問題なのである。

投げ技の美しさ、ダイナミックさを前面に出して柔道の魅力をアピールしようと、「投げる」ことを推奨してきたIJF。しかし4年間に渡るルールのコントロールの結果、投げ技は相手の攻撃を止める、相手に攻撃させない戦術的ツールとして使用されるに至った。言い過ぎであろうか。

少なくとも試合を見る限り、現時点においては、4年間に渡るIJFの「ダイナミック柔道」に対するチャレンジは失敗に終わったと言わざるを得ない。まことに、残念だ。


求めるべきは「投げる」ではなく「組む」ではないか


これほど過剰に「掛けて相手を封殺する」トレンドの横行を危惧するのは、それを突き詰めた究極にあるのが「一切相手に持たせずに自分だけが掛ける」という、相手の技も自分の技も掛からないという不毛な境地にあるからだ。どのジャンルにおいても本来、選手が目指すべき究極とはそのジャンル自体を浮揚させるような位相の高いものであるべきだが、この戦術の錬成は柔道という競技を消滅させかねない。選手が自身の技術を磨けば磨くほど、修行を重ねれば重ねるほどそのジャンルの成立が危うくなるというのはまことに不健康な状態だ。イチローがヒットを打てば打つほど野球というスポーツの成立が危うくなる。そんなことがあっていいわけがない。

かつて、行き過ぎた組み手争いが「軍鶏のケンカ」だと揶揄されたことがある。その行き過ぎた「組み手争い」ですら、その最終的な目的は良いところを持って「投げる」にあった。所謂タックル柔道であってもその目的は「投げる」ことにある。 おわかりだろうか、今回柔道というジャンルが選択しつつあるのは、組み手自体(で優位を取ること)が目的「、投げる」ではなく「掛ける」が終着点なのだ。タックル柔道や組み手争いというような、いままでの戦術的トレンドとはこの点で質も位相も全く違う。日本中に溢れる年配の柔道家たち、若者を説得する語彙には欠けるが目利きは一流という彼らの発する「今回の柔道はつまらないね」という言葉に隠されたこの危機的状況を見逃してはならない。ジャンル自体の成立の、危機だ。「いや、結構面白かったよ、五輪の柔道」という人は、「4年に1度しか柔道を見ないんだから、せっかくだから投げがみたい。なんで投げが決まらないの?」という質問に、どう答えるのか。

本来であれば選手の究極の目標は当然「相手を投げて『一本』を奪う」にあるべきだ。
IJFがこれに対するアプローチに(現段階では)失敗したと評することは誰にでも出来るが、それでは何も始まらない。評するからには少なくとも何がしかの提示がなければならない。一体どうすればよいのか。

「組み合う」ということに尽きるのではないか。

五輪3連覇という偉業を成し遂げた野村忠宏氏が、あるテレビ番組でこう発言したことがある。曰く、10対0で組み勝ってしまうと、相手は技を仕掛けられる可能性がなくなるので防御に専念する。この状態だと逆に相手を投げることは難しい。よって自分は相手にも組ませて、8対7や7対6で相対的に自分が有利な状態を作って勝負する、と。

この発言には相互に投げを狙いあうことが柔道というゲーム成立の大前提であるという本質が凝集されている。投げるリスクもあるが、投げられるリスクもある。相手が投げに来るから、その力を利用して美しい投げも決まる。仕掛ける、誘う、返すという攻防の妙味も生まれる。先ほどの「不毛」の対極、競技としてこれは非常に豊かな状態だ。柔道のスローガンである自他共栄という言葉はここにも染みているわけだ。

しかし、では例えばお互いをガッチリ組み合わせてからヨーイドンというモンゴル相撲のようなルール改革を提案したらどうなるか。おそらく柔道人の100人が100人とも猛反対するであろう。力勝負という側面があまりに濃くなってしまう、柔道の妙味を損なう、と。筆者もこれに賛成だ。おそらく「組みあう」という行為、実はルールとしての規制にはなじまない。

では「組み合う」という行為は一体何と規定するべきであろうか。

近いものが他競技にないかと考えると、あった。これまた国内の競技で恐縮なのだが、相撲の「立ち合い」に例えるとしっくりくる。

相撲は、極端に狭い土俵の中で繰り広げられることもあり、お互いが「ぶつかりあう」ことがその競技成立の暗黙の前提条件になっている。しかし、立ち合いにおいて「ぶつかりあうこと」がルールとして義務づけられているわけではない。しかし、皆、ぶつかる。頭から当たる、かちあげる、四つに組む、張る。

単純に勝ちの確率だけを考えたら、それは変化したほうがいい。しかし度重なる立合いの変化、強者の変化に与えられる観衆の反応は当然のようにブーイングである。親方衆も「変化も技のうちだし食うほうも悪い」としながらも「こんなことをしていてはいけない」と、その力士を叱る。当然のように、叱る。

ルールではないが、競技としての成立に絶対必要。反則ではないが、成されなければ当然のようにブーイング。本来「組む」ことの位置づけとはこういうことだったのではないだろうか。

70年代、80年代、国際大会でポイント柔道に徹する選手に長屋の熊さん八っつあん的柔道好きが叫んだ「外人の柔道は違うんだよ!」「組まずにポイントだけ狙うなんて柔道じゃないんだよ!」という怒りの声、そして同時に国内向けに発したであろう「大きい奴とまともに組んだらダメだよ!」という声援。この理由を同時に満たすのは上記の「立合い」アナロジーではないか。

そして、組まずに、投げを狙わずに勝ちを拾おうとする選手が横行する現在の状況は、いわば、全員が立合いで変化する相撲と言って良いのではないだろうか。そりゃ当然、面白いわけがない。

どんな選手だって、柔道をやっているからには「投げ」に魅力を感じている。「投げ」が勝負の終着点であるべきだと意識もしている。

だったら、投げを狙いあう、決めやすい状況を胴元がプロデュースしてやるしかない。組み合うという行為は何であるか。さきほどの立合い論を無理やり近い言語に落とし込むなら「美意識」、いや、やはり「文化」ということになるのだろうか。組み合うことという柔道が抱え込むべき文化的前提、ここに対するアプローチ、これをどう具現化するかが競技柔道というジャンル全体の浮揚のカギだ。

暴論になるが、例えば一旦ルール化するという考え方だって有り得る。ポイント制を導入してから30年近い時を経て、やはり「一本」を目指すべきだと競技規則の回帰が起こり「効果」を廃止したように、競技柔道のルールは長いスパンの振り子の揺れを経てあるべき姿を探ってきているように思える。文化として一旦根付くことを志向して、ルール化するという痛みを味わう期間があっても良いのではないだろうか。

一応言っておくが、日本人が組ませてもらえずに負けたからこんなことを言っているのでは断じてない。もし世界中の選手が競技人生のしょっぱなからキッチリ「組んで投げる」日本式の修行をしてきたらパワーに劣る日本は「練られた技」という他と一線を画すストロングポイントを失い、かえって勝てなくなってしまう確率が高い。

しかし、それでも、柔道が競技としての魅力を保ち続けることのほうが、はるかに大事だ。

国際柔道はかつてのような未成熟な競技ではない。鹿屋体育大の中村勇氏は「日本柔道と国際柔道は親と子の関係」と喝破する。「今の国際柔道は大学生くらい、親(日本)と対等になり、段々親の考えが分かるようになりかつ自分の世界もできてくる」。と。
「効果」を廃止したのも、「足取り禁止」をあれだけ精緻なルールに仕上げてきたのも、日本ではなく他ならぬIJFである。かつては「親」であるはずの日本の提言を理解できず、反発してきたIJFもここまで成長した現在であれば、そしてダイナミック柔道志向が空振りに終わった今であれば、この理屈は響くのではないか。かつてなら「そこまで日本は勝ちたいのか」と冷笑されたであろう「組み合うことの重要性」、提案する機は熟している。




文責:古田英毅


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