柔道家のプロ格闘技参戦に賛成?反対?
近年多くの一流柔道選手がプライド、K-1などのプロ格闘技に参戦していますが、あなたはこのことに賛成ですか?それとも反対ですか?
できれば下のコメント欄にその理由も書いてください。
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(例)私は賛成です。 なぜなら・・・。
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どちらかといえば反対です。
吉田秀彦のような柔道家であればいいですが、髪を染めて、柔道家と名乗っている秋山のようなやつは大反対です。サッカーの選手ならまだわかるけど、柔道家なら日本人としてそのままの黒髪であるべきだと思います
投稿者 グレーシー一族 : 2006年08月14日 14:33
柔道なんてやっても意味ない!畳の埃でもはたいとれば(バカにした笑)
投稿者 名無しさん : 2006年08月02日 00:36
プロ参戦はいいところも悪い所もあるように思えます。
柔道家が活躍すれば、柔道やってみようと思う子供達は増えるで
しょうし、トップ所になれば生計も立つでしょうね。
しかし、客がいる事ですから観客無視の純粋な試合はやりにくい
のではないでしょうか。また、総合はしっかりとした基盤がない
整備されていないジャンルだと思います。
現状、強化レベルでなくとも柔道出身者は総合に多いです。
人材の流出と言えなくもないと思います。
柔道界に相談窓口を置くなり、議論するべきだと思います。
投稿者 ところてん : 2006年06月24日 15:16
柔道人の格闘家への転身。大賛成です。
現在、格闘家に転身している柔道家は殆どの人が、現役時代世界の頂点で活躍したか、それに近い活躍をした人たちと思います。柔道人としての現役人生を終え、第二の人生にチャレンジする場として 格闘家 として活躍しようとする 情熱。この情熱こそが 現在の若者達に必要な精神ではないかと思います。30歳初期で柔道界から引退し、縦社会の柔道界で一指導員として生活するより、のびのびと第二の人生を謳歌する事こそ 真の人生街道と思います。
投稿者 浦島太郎 : 2006年06月24日 08:40
賛成です。
私が思うに柔道の伝統、礼節、心構え等ありますが、それは柔道内の事だと思います。もちろんその精神は人の道に深く関わっていて崇高なものだと思います。でもそれを総合格闘技に持ち込むのが多少ながら疑問です。昔の偉い人の格言を言うののもまた同様にです。
総合格闘技は多くの格闘技を総合したものが基本です。柔道や空手が礼節を踏まえたその道を行っているのは誰もが知る事です。ではボクシングはどうでしょう相手を挑発し罵声を浴びせ闘争心を主流にしてきたスポーツ。技だけでなくそれら精神の、心の最初に自分の本質をどこにおいているか、それらの違いの戦いでもあります。先のコメントにあった「過剰な演出、粗暴さや挑発ぶりを喜ぶ態度、頓珍漢な解説など、柔道の足を引っ張るとしか思えないことがあるからです。」
これは納得できません。なんでもかんでも礼節等の保守的な、大人ぶった考えを持ち込むのはいかがなものでしょうか。
でも確かにそうです。子供が見た時、大人が見るな!と言う親も少なからずはいるでしょう。でもそれだけでない事も確かです最初はいがみ合っていても試合が終わった後は抱き合い相手を心から誉める事も決して少なくはありません。子供だってそれが全てない事で分っています。あるマンガにありましたが「男に生まれたなら誰だって一番強くなりたいと思う」と言う台詞があります。そうですよねみんなあるでしょう間違いなく。その昔一瞬でも見ていた夢が柔道なりレスリングなりしていてその道で勝ち残ったものにチャンスがあったならやってみたいと思うはずです。そのひと時童心に戻って礼節も忘れて、ただ一番になりたい。高みに登ったっている自分を見て欲しい、評価して欲しい、その気持ちを持っているから総合に行くんだと思います。
1つ言い忘れましたが誰も総合だけを見て柔道の品位がどうこういうのは明らかにおかしいと断言します。オリンピックを見たら分るはずです柔道の精神がどれだけ世界に評価されているのか、選手がどれだけ努力して、勝った時負けた時の気持ちをファンや自分を支えてくれた人たちに1つ1つ言葉を選んで心から感謝しているのか。近くの柔道場の先生や先輩方がどれほど礼節を重んじ日々努力しているのか、見れば直ぐに分るはずです。総合格闘技も人が娯楽の為に見るものです。演出があったりそれがオーバーになることも、もちろんあります。でもそれを悪とみなすのではなく人がより楽しむために、総合格闘技をただの欲望の、または暴力の場に置き換えない為にスポーツ同士の異種格闘技、人間関係のドラマと置き換えてアピールする為に必要なものであるとものだと私は考えています。
と、私の意見を一方的に述べさせて頂きましたが、もちろんお金が目的な人もいるでしょうし総合格闘技を興商的なもの(本質はお金?)と考えている方も多いでしょうが選手自体はストイックでスポーツをやってきた方が多く人間のできた方が多いのではと思います。以上生意気な事を言って本当にスミマセン。
投稿者 ユラ : 2006年04月16日 05:40
私は基本的に反対です。
柔道だけでなくそれぞれの格闘技にル-ルや技や鍛え方があります。そのそれぞれの格闘技を踏まえた上で、総合格闘家として参戦するのなら賛成です。たとえば、柔道出身者が空手出身者に寝技で勝っても当たり前ですし、まして顔面攻撃に慣れていない空手家が殴られて失神する、ボクシングチャンピオンが下段蹴りで負傷する、当たり前のことだと思います。
総合格闘家だけで戦うべきで、柔道の看板を背負って戦うべきではない。
投稿者 通過点 : 2006年03月18日 15:34
賛成です。講道館はプロコースを作り強化に乗り出してもいいのではないでしょうか?オリンピックコースとプロコースを作り、両方で講道館が勝利する。ブラジリアンにもサンボにも、
負けない。当身対策もきっちりやる。プロ選手もオリンピックコースや全日本にも出れる。ソウル五輪以降外国人対策をきっちりやり、結果を出してきているように研究し、他流試合対策をとる。強いがマナーも礼儀も知らないチンピラみたいな奴等に心技体ともに揃った柔道家が勝利する。そして技術などもすべて伝え、また共に発展していく。心技体と自他共栄でいいと思います。
投稿者 はー : 2006年02月24日 16:13
もこみちさんのコメント、素晴らしいと思います。
「柔道を極めてきているものは、精神的にも肉体的にもかなり優れている」「そこまでになるには幼少期から柔道だけに打ち込み練磨しなければならない」
柔道には、そこまでさせる魅力があります。
競技者としてトップになるにはもちろん、そこそこの成績を残すためにも、他競技に比べて、肉体的にも精神的にもキツイスポーツだと思います。(「サッカー日本代表は柔道日本代表のメンタリティと厳しさを学べ」と何人かのサッカーライターも驚きをもって書いている)
若いうちから人生捧げないと、標準的な競技力すら獲得できない。そして、そうする人は非常に多い。
そこまでやる競技者をこれだけ生み出している以上、全柔連はそういう人間たちを「柔道で食わせる」「社会的にも高い位置につけるようにする」責任がある。
全柔連には、格闘界に転向する人間を責める資格はないですね。
投稿者 MARK : 2005年12月31日 10:29
吉田とかが柔道から総合とか誰だっけ吉田の世田谷の後輩も「総合を舐めてました・・・」云々とまあ、近代柔道と本来の日本傳講道館柔道が解っていないな避けないコメントで世界や日本のトップに居た者の発言と想うとうんざりしますね。
武道に引退もクソも無い訳であって生涯修練であって他流試合に出てもそれこそ個人の問題でたとえ吉田やらが負けたとしても飽く迄も総合ったってルールがある単なる試合でしょ。
個人が負けただけで柔道が云々と言うのは余にも稚拙な考えですよね。
また、古く悪い考えで柔道(全日本クラスで)してると兎角柔道会が手放したくないと無理難題・理不尽なことを行うのも問題なんですわね。一武道家・一日本傳講道館(クズ近代)柔道家・一社会人であってモラルの範囲内であれば個人の自由である事を考えなければいけないですわな。柔道だけでは社会生活できませんからね。
「武術から言うても、いつ相手が蹴って来ても、突いて来ても、身体が自由且つ軽快・俊敏に働くということでなければならぬ。講道館では乱取をする際、襟を掴み袖を捕らえて稽古をするがこれは初心者を導くに必要なので、之を最後まで用うべき形と言うものでは無い。仮に袖を捕り襟を握っても、極めて軽く握り、之に力を入れてはいかぬ。しからざれば、急速に身体をかわすことが出来ない、以上の注意を着眼して稽古するならんば、立っている場合に、今日往々にして見えるが如き、無闇に力を入れ捩くり合うということがなくなって、ボクシングをやるものの姿勢などに類した一種の姿勢が乱取の姿勢になり得るのである。西洋の借力姿勢は、先方で当身をせぬということが予め決まっているから、あのような姿勢をするけれども、若しも当身を予測するならばボクシングの様に離れていなければならぬのではない。或いは接近して着物をつかみ、手を捕らえ、または首をとらえる。の場合においても、相手が突いて来たり、蹴って来たときに応じ得る身構えして接近せねばならぬ。其接近するに当たり、どういう風にするかと言うに、或いは相手の右の手首なり袖なりを引っ張る。自分は相手の右側に身を進める。すると、向こうの右手は取られて居るから、攻撃が出来ない。左手はは自由であるが、距離が遠いから危険が少ない。左の足も同様である。また右の足は接近しすぎて攻撃には不便である。こういう工夫に考えて接近しなければならないものである。無闇に接近してはならないのである」
これを幾人の自称(近代)柔道家が知り得て居るのでしょうか・・・
投稿者 柳 : 2005年12月25日 22:21
反対です。
プロとなって、いろいろな選手と戦ったり、それでお金を稼ぐことは構わないと思います。特に異種格闘技戦は柔道全体にとって有益だと思います。
気に入らないのは、選手や試合ではなく、それに群がるテレビ局や雑誌の類です。
過剰な演出、粗暴さや挑発ぶりを喜ぶ態度、頓珍漢な解説など、柔道の足を引っ張るとしか思えないことがあるからです。
投稿者 能剛制柔 : 2005年12月16日 00:21
賛成です。
なぜ柔道家がプロに行くか?
なぜだと思います。柔道をやっている子供たちは、あんな柔道家になりたいと有名選手を思い描いて頑張っています。
あるいは、俺は何が何でもビッグになるんだ。と野望をもち日々の生活から無駄を排除して一目散に努力し続けて柔道を頑張っている子供もいます。そんな子供の中から、オリンピック選手やそれに近い選手が続々と生まれてくるんですが、やがて彼らが大人になって将来を見据えることのできる歳になったとき柔道の将来性に気付くんです。
巷で、しきりに言われている言葉で「柔道は金にならない」皆さんも聞いたことや思ったことがあると思います。人が生まれて死ぬまでに平均で稼ぐお金は大体2億だといいます。
柔道というスポーツは、比較的激しくそして激しいがゆえに競技生命の短いスポーツとされています。その理由の一つに年齢制限がありますが、実力では勝っていても年齢があるがゆえに、上に繋がる大きな大会に出られないという現状があります。そうなってくると、歳を重ねても俺はいつか夢をかなえるんだと下向きに柔道をやり続けている人のやる気をそぐことになり結果的に、柔道の道を退かされています。
そういった人材が、行き着く職業といえば、自分のやってきた経験を生かせる仕事で学校の先生や警察官などになっていっています。しかし、今、例に上げたものは、柔道界において比較的、優秀な成果を出した選手の話です。
同じスポーツの中に、サッカーや野球などがありますが、今回はその二つを例に挙げてみると、その二つには、プロという領域があります。そのプロという領域にはメリットとデメリットがあり、メリットはその選手の競技に対する評価が金額になるということです。デメリットは競技が評価できないものになったり自らできなくなった時に解雇されるということです。どの競技においてもその競技団体のマーケティング力に応じて各競技での選手の評価額が異なってきますが、口々にあの選手の年俸がいくらだあの選手はいくらだと噂されています。ご存知の通り、いずれにしろその評価額は多額なものになっています。
スポーツで頂点を極めるのはかなりの労力と精神力がいり、殆どのチャンピョンや上位に君臨している選手は、小学校ぐらいから本格的に競技をやり始めています。したがって、その時代から競技を一番に考えてやっているということです。ということは、勉強の方が疎かになるのは、致し方ないことになります。東大のチャンピョンやプロスポーツ選手がいないように。勉強と競技どちらを優先するもやはりどちらかが疎かになり、どちらを極めることが良い事なのか分かりませんが、どちらにしろ極めることは簡単なことではありません。ところで、今の社会では、勉強の方を評価する傾向にみられています。すなわち、柔道が金にならないという言われは、その辺にあると断言してよいと思います。勉強を優先して東大のような一流大学進学した人は、それなりに、一流企業に就職でき学校の先生や警察官よりも一ランク上の会社に就職する率が高いようです。
同じように、小さな頃から専門的に行ってきた種目を比べたところ、サッカーや野球などのプロのあるスポーツは、現役時代に将来性に担う金額を稼ぐこともできる。勉強では、社会的に上流層の会社に就職することができる。柔道は、先生や警察官が関の山である。そこで今ブームで一攫千金の狙えるの格闘技に転職する選手が増えるのは当たり前のことだと思いませんか。今まで培ってきた勝負勘や体力そして技術を無駄にしたくないのです。
柔らの道は一日にして成らず。柔道を極めてきているものは、精神的にも肉体的にもかなり優れている。そこまでなるのには大抵、小学生の頃から専門的にやってきている。柔道に将来性が見込めないから途中で柔道を断念する人がいる。そしてわざわざ、競技の違う世界に夢を見る。
柔道界を動かしている全日本柔道連盟さん、もっと今の柔道家に将来の夢を明確に抱かせるべく柔道普及に、そして、そろそろプロの柔道を真剣に製作したらどうですか?時代は、変わります。今の柔道家は、苦悩しています。
長々と読んでいただきありがとうございます。まだまだ、書きたいことは、沢山あるんですが、今日はこの辺で・・・。
投稿者 もこみち : 2005年12月04日 23:01
賛成です。
幼年期から総合格闘技を習ってきた選手が、大人になり柔道に興味を持ち、柔道で頂点を目指したい、と聞けばなんか嬉しいですよね。
だったらその逆も認めなきゃ!
プロ総合格闘家から柔道に移行するのは許されないのだろうか。
私は、全国大会でベスト4になったことがありますが、総合格闘技は怖いのでやりません。
柔道が一番好きです。柔道家が全てプロに流れる結末になることはないと思うし、総合をやりたい人がやるのは自由なので賛成です。
投稿者 ピラック : 2005年11月28日 01:37
柔道の実力が証明されていますから、総合格闘技への
参戦は賛成です。
吉田選手の2戦目は相手が胴着を脱いだからの苦戦であり、
「1戦目は終わっていない」と騒ぎながら、条件を変えて
挑んだ相手の負けということ。
まがい物でしょう。
投稿者 Ken : 2005年11月24日 00:18
微妙です。
オリンピックで金メダルを取った人間が見世物になってるのは・・・
ただ柔道着姿で闘い勝利してる姿を見て、柔道を始めた人間が居るのもこれ又事実。そう言う意味では柔道界に貢献してると思いますが・・・微妙。。。
投稿者 獏 : 2005年11月16日 22:57
私も賛成です。
柔道と言えどやはり格闘技ですから、常に技は練磨されなくてはならない。しかし、おなじ流派内での練磨では限界があると思います。
また、限られた範囲内でいくら精進したところで、出来上がるのは井の中の蛙。大海を知らないでは勝れた格闘技を自讃したところでそれは「格闘技」といえど「武道」にはならないのではないか。
柔道の草創期も他流(柔術)との熾烈な争いがあり、その中で技が究められてきたと言う話を聞いたことがあります。そういう意味からも、ある程度の技術・技量を持った人には「他流試合」を認めてもいいのではないかと私は思う。
しかし、嘉納治五郎先生が「柔術」を「柔道」にした意味も忘れてはならないのも事実。単に「格闘の勝敗」を「技の優劣」に直結して捉え、本来の「道」を求める姿勢を軽視してはやはり柔道自体が死滅してしまうは道理。
実戦武術を標榜する「自称最強武道」の一派が諸派分裂し、それぞれが個々に「我こそは最強」などと叫んでいるのを見ると、「術に溺れ、修羅を道となす」姿にむしろ哀れみさえ覚えてしまう。やはり「武の道」は「修羅」にあるのではなく、人の道に昇華すべきであり、それにこそ嘉納先生が提唱した「精力善用 自他共栄」の思想があると私は思っている。
そういう意味で「平和なスポーツとしての柔道」と「格闘技術の柔道」というのはいわば車の両輪に譬えられるのではないか?どっちが欠落しても「柔道」は「柔道」足りえないと思える。いくら「平和なスポーツ」としての柔道が広まっても、それは単に「エクササイズ」や「ダンス」の意味しかなく、本来の「格闘術としての柔道」があってこそ初めて、説得力のある「武道」としての「柔道」が成り立つ。
そういう意味から言っても、単に「スポーツ」としての柔道だけではなく「格闘術」としての柔道が練磨されなくてはこれからの柔道という「武道」が表面上は広まっているように見えて実は、衰退の一途をたどるようになってしまうと思う。
誤解して欲しくないが、私は「格闘術の勝ち負けにこだわれ」と言っているつもりはない。「ワザとしての勝ち負け」が「人生の勝ち負け」に直結しているとも思わない。
しかし、そうは言っても「強さ」というのは格闘技を志すものにとっては重要なポイントでもあるし、その強さを求めるがゆえに「精進」が進むのも事実だろう。
そのために、もっと柔道の強さを究めることは柔道自体にとっても必要なことであり、それが「スポーツ」にフィードバックされることにより、より「強い柔道家」が育つのであれば、やがて柔道はもっと「武道」として発展すると思うのだが。
ちなみに「修羅の道」とは単に「争う道」と言う意味ではない。「修羅」の本質は「争い」にあるのではなく「諂曲(てんごく:自分の意思を曲げて相手に媚び諂う事)にあるとされる。自分に正直にあらず、自分で自分を偽って他を貶めんが如き所作をするがゆえに「争う」のが修羅の道の本質だ。
他を認め、自らを認めるがゆえに競合するは「修羅の道」にあらず。それはまさに「自他共栄」の精神そのものである。
舞雨 寛
投稿者 舞雨 寛 : 2005年11月11日 22:13
賛成です。
>旗端さん
グレイシーがまがいものだと断じてらっしゃいますがその根拠を教えていただけますか。
また第2戦では吉田選手は全く何もできず完敗でしたが(ルール上引き分け)その試合についてはどうお考えですか。
私はグレイシーの回し者ではございません(笑)気になったことをお聞きしたいだけなのであしからず。
投稿者 かずや : 2005年10月13日 21:38
私は賛成です。
たくさん参加すれば良いと思います。
(もちろんDuneさんの言うように、どのレベルから「柔道家」を名乗っていいかという問題は残りますが)
吉田秀彦が、ホイス・グレイシーを余裕で破ったデビュー戦、私は嬉しさに泣いた。
実力的にみれば吉田と柔道はホイスやグレイシーみたいなマガイモノに負けるわけがない。それはよくわかっていたけど、もしとんでもないアクシデントが起こって吉田が負けてしまったら柔道の実力が一般人に誤解されてしまう、ただそれが怖かった。
だから、柔道が守られたと、そう思って泣けた。
ただこれ特殊な状況ではないかと思う。
一人の人間が柔道を代表する、少数の人間が柔道を代表する、そしてそれを持って柔道が評価されるのは危険だと思うのよね。
私は、柔道の実力を信じている。
総合格闘技の入り口としても、柔道がいちばんいいと思う。
だから、弱いのも強いのも、100人でも200人でも総合に参加すればいいと思う。
たくさん参加すれば、そりゃ勝ったり負けたりするだろう。
でもたとえば、空手出身者やただの柔術あがりよりは、傾向として「柔道が勝つ」ということがはっきり見えてくるはずだ。
サンプルの数が多くなれば、その実力は正当に評価されるはずだ。
ただ一人の柔道家が柔道を代表したら、試合中に怪我をして負けるかもしれない、汗で滑ったところにラッキーパンチくらうかもしれない、相手の差し入れ食って体調崩して負けるかもしんない。そんなことで柔道が評価されたらたまらん。
だったら、たくさん出ればいい。柔道は優れたメソッドなのだから、出れば出るほど「柔道が強い」ことがわかってもらえるだろう。
投稿者 旗端 : 2005年09月29日 10:52
低俗な荒らし発言ありがとクマー。
私は賛成です。条件つきですが。
(誤字脱字、解釈間違いあったら識者の方修正よろしく!)
趣旨を理解していない発言はスルーするとして、講道館柔道は明治以前のいわゆる柔術を嘉納治五郎先生が体系的に統一したものを指すわけですが、柔術としての体系化された技術+柔道として体系化された技術が複合化されております。
投げ・固め(寝技)・極め(関節技)・当身(打撃)の各種の技が存在します。一般の方々が認識されているのは、極めの型まででしょう。柔道にも打撃技は存在しますが、急所狙いの危険技(殺人技)が多いためその伝承は高位の段を有する諸先生に限られております。
つか、柔道の歴史説明はE-Judoの他のコンテンツを参照した方が早いですね・・^^;
講道館柔道の格闘家としては吉田秀彦氏が上げられますが、彼とグレイシーの初めての試合で高田ノブヒコ(漢字忘れた)が、吉田選手が下から攻めているのに気づかず、「吉田きついですねー」という阿呆な発言をしたことから分かるように、日本の格闘技ファン及び、格闘技選手は極めて狭い世界の極めて低いレベルで自己満足に浸っている状態です。
そんな状態を看破するために柔道の高位の段を持った方々が(できればゴールドメダリストに限定したい)参加するのであれば、賛成します。2~3年柔道かじって、柔道を知った気になっている阿呆が参加するならば反対てことです。乱文失礼しました
投稿者 Dune : 2005年09月24日 11:25
私は賛成です。
なぜなら日本人には憲法で職業選択の自由が認められているからです。
投稿者 通りすがり : 2005年09月01日 18:38